日本語の未来

投稿者: | 2008-11-28

水村美苗の「日本語が亡びるとき」を一気に読了しました。レビューは例によってブクログに投稿しています。読んでいて意味不明というか私には理解できない箇所がいくつもあったので星は4つにしましたが、お勧めの本であることは間違いありません。

ここでは、このテーマに関連して私なりに思うところを。

まず、日本語による言語活動が沈滞するかといったら、私にはそうは思えません。インターネットというかウェブを得たことで、日本語による言論活動は明らかに活発になりました。

私の専門である遺言や葬送などもそうですが、分野によってはまだまだウェブに乗り切っていない「業界」もたくさんあるはず。そもそも、プロであってブログも持たない、SNSのIDも持たないという人が少なくないでしょうから。でもいずれは、あらゆる言説がウェブに乗ってくるでしょう。そうでない業界は衰退するだけだと思います。

ということで、人口が仮に今の半分になったとしても、日本語による言説空間はそれなりの量を維持し続けるでしょう。学術など一部の分野を除けば、日本語だけでも生きていける時代がまだまだ続くと思います。

問題は、質です。そこで私が懸念するのは、水村氏のように上等な人たちほど英語の言説空間に流れてしまうということではありません。ウェブに流通する情報や言説が増大するほど、相対的に人びとが上質な言論に触れる時間・余裕がなくなり、結果、その人達の吐き出す言論の質がどんどん低下していくということです。

いわゆる玉石混淆問題で、石の割合が増えるんじゃないか、ということ。そして上等な言論に触れたことの少ない人は、玉と石を見分ける力もないんじゃないかということ。ネット上のソーシャルブックマークやソーシャルニュースで人気記事になっているものを見ると、そう痛感します。

そのためには、2つの処方箋があります。

まず、時代の風雪に耐えた古典を味読すること。ここでも私は水村氏と意見を異にしていまして、むしろ読むべきは文語・漢文で書かれた和漢の古典だろうと思います。取っつきづらいなら対訳でいいから。で、加えて近代以前の西洋の古典も(もちろん日本語訳でいいから)読む、と。

もう一つは、自分の専門分野に閉じこもらず、他の分野における一級品にも目を通す(あるいは触れる)こと。世はどんどん専門分化が進む傾向にありますので、自分の分野だけ見ていたら、「井の中の蛙大海を知らず」ということになりかねません。

ともあれ、私はウェブにおける日本語言論が質・量ともにますます充実することを期待していますし、またそれは可能なことだとも思っています。そのうちいくらかは、英語などから翻訳されたものでしょうが。

他にも考えていること、言いたいことはありますが、長くなったので続きは別エントリで。

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  1. ピンバック: 志の輪、広げよう。 » 「群衆の叡智」を見た

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