お坊さんの生きる道は

投稿者: | 2008-11-30

関心を絞って情報収集していると、琴線に触れるものにバシバシ出会うものです。

ここ数日で、お坊さんの生きる道について考えさせられる記事を2つ、立て続けに見つけました。いつも言うように、私は経を読んだり戒名を付けたりするという「ビジネスモデル」は、遠からず崩壊すると予想しています。というか、私もそれを推進するつもりです。。

今のうちに(我思、記是)

僕は別に寺だけで食べられなくなっても、今のところは塾講師やそれこそコンビニでバイトしつつも寺を続ける覚悟ができている。別に無理に寄付して貰って大きな本堂や庫裏を建てなくてもいいし。大切なのは「法」を伝えることだ。お寺さん自身も昔の僧侶はその辺の草を食ってでも仏教を伝えてきたことを踏まえるべきだ。うちだって、祖父の代は羊や鶏を飼って、羊毛や卵を売り、生活してきたんだし。今は歴史的に言って極端に恵まれているだけであって。

仏の教えに従う、というより仏の教えを生きるなら、それこそ「その辺の草を食ってでも」という覚悟が必要なんじゃないでしょうか。一方、「塾講師やそれこそコンビニでバイトしつつも寺を続ける」というのは、何か違う気がします。兼業坊主って、何か中途半端。

さて、もう一つの記事は、富山刑務所内のラジオDJを29年にわたって続けているという曹洞宗の僧侶の話。無償でやられているそうです。

【街物語】(44)日本初の刑務所のラジオ生放送 DJは住職(MSN産経ニュース)

人の心、もっと言えば魂に寄り添ってあげるのも、僧侶の大事な務めなんじゃないでしょうか。別に刑務所に限らず、「働き口」は世の中の至るところに転がっているはず。そうした尊い営みは、それ自体としては稼ぎにならないかもしれません。だから我々俗人は、そうした徳の高いお坊さんをサポートする義務を負っているとも言えます。

お坊さんに限らず、世のため人のために生きられる人が多いほど、その社会は民度が高いと言っていいと思います。

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