年が明けて三週間ほどですが、有名人の訃報が相次いでいます。
まず世界中で驚きと悲しみを持って受け止められたのが、デビッド・ボウイの死(1月10日没)。今週はイーグルスの創設メンバーであるグレン・フライの訃報もありました(1月18日没)。日本でも、桂春団治(1月9日没)に、知名度は限られるかもしれませんが澤昭裕さん(1月16日没)。
これらのほとんどを私はTwitterで知り、お悔やみのツイートをしてきました。もちろん直接会ったことがあるわけではありませんが、それなりの喪失感・寂しさがあるものです。そしてデビッド・ボウイやグレン・フライについてはその曲を改めて聴き直し、澤昭裕さんについては書いたものをいくつか読み直しました。
ネットの時代はさまざまなものが「シェア」される時代ですが、有名人を喪った悲しみもシェアされる時代と言っていいと思います。訃報に触れて、その人にまつわる思い出や感謝の気持ちをSNSやブログに書き込み、追悼する。リアルの葬式には立ち合わないとしても、そんな追悼もあって良いのではないでしょうか。
そうした喪失感は、何も世界的な有名人・スーパースターについてだけ生じるものではありません。ブログやTwitterでその発言を注目していた人、あるいはリアルでの交流はほとんどなくてもFacebookでつながっていた旧友や知人に対しても、「あぁ、もうあの人はいないのか」という寂しさを感じたりするものです。
こういう流れを否定的に見る人がいるかもしれません。身近な家族・親戚や友人の死とは比べものにならないだろう、と。でも私は、メディアやネットでつながっている人の死も、現代人にとって人生や生活の大切な一部と考えます。それを悼むことが無意味とか時間の無駄とは考えませんね。むしろ人生の中で貴重な時間なのではないでしょうか。追悼の習慣がある人は、身近な者を喪ったときそれをより深く味わい、そしてそれゆえにグリーフをこじらせることも少なくなるではあるまいか、とすら考えています(あくまで仮説ですが)。
高齢化する日本社会は、このように馴染みの有名人の死が度重なる「追悼の共同体」という側面を強く帯びてくることでしょう。
※4年前にも同趣旨の記事を書いています(タイトルもほぼ同じ)。この時は、ワンガリ・マータイ、スティーブ・ジョブズ、北杜夫の各氏が、亡くなった有名人として挙がっています。
有名人を追悼する | 志の輪、広げよう。(2011-11-01)