人間の尊厳って

「緩和ケア」でフィード検索をしていて、次のブログを見つけました。

母は自分や自分自身の人生を整理して価値を見いだす作業中 – koalaの部屋 – 楽天ブログ(Blog)

前半は終末期における回想や内観の大事さを思い知ったという話で、これはとてもいい記事です。ありがとうございます。

聞き捨てならないというか私なりにカチンと来たのが、次の末尾部分。

点滴や酸素の管に繋がれて、オムツの中で便をするような尊厳のない最後はまっぴらだという意見に、昔はそうかもなんて感じいましたが、人間の尊厳はそういうものではないと母に教わりました。

そういう状態の人を尊厳を失った人と見る感性こそ、人間の尊厳がわかっていないとも思いました。

以前「私の尊厳死宣言」をした者としては、まさに自分に批判の矛先が向いているような気がしてしまいます。で、以下は私なりの異論・反論。

まず尊厳というのは本人にとっての尊厳であって、家族やまして赤の他人の第三者が「この人の生には尊厳がない」と決めつけるのはナンセンスだということ。ただ、それは「この人の生には尊厳がある」と決めつけることについても同じでしょう。

献身的に看護されているらしいブログ筆者さんが、自分の母親の尊厳を否定されたくない気持ちをお持ちになるのは当然のことと思います。ですので、「あなたのお母さんは生きていても仕方ないでしょ」なんてことを言う資格は誰にもありません。実際、言う人はいないでしょうし。

ただ、「そういう状態の人を尊厳を失った人と見る感性こそ、人間の尊厳がわかっていない」とまで言い切るのはどうでしょうか。

そういう状態の人全てに尊厳がないとするのが極論なら、そういう状態の人全てに尊厳があるとするのも極論であり、ともに自分の価値観を絶対視する過ちに陥っているように、私には思われます。

生命を極端に軽んじる立場であれ、生命を極端に重んじる立場であれ、自分の価値観を絶対に正しいとし、それを他に押しつけようとするのは、たとえ本人がいかに善意の持ち主であっても、暴力的と言わざるを得ません。見てください、「人間の尊厳がわかっていない」という言葉の冷たさ、傲慢さを。

その中身がどんなものであれ、自分固有の価値観や信念を最期まで貫き通せることこそ、尊厳ある生なんじゃないでしょうか。

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  • 身内の感情としては、やはり生きていて欲しいのです。
    そんなに苦しんでいないという条件付きですが。

    苦しみのうめき声を上げていたら、助かる見込みのない延命を望むのは、
    患者にあまりにも過酷だというのは明白ですから。
    でも「そんなに苦しんでいない」という線引きはどこでするのかと問われたら、
    無責任ですが、答えはないというのが本当のところです。

    私の場合、寿命が来たと思えて、それを受け入れられる状態であれば、
    生きていることにしがみつく必要は全くないと思っています。
    ただ、昔から自殺はしたくないと考えてきました。
    また、私を看取る人たちにも、あまり悲しんで欲しくないと思います。
    その辺の兼ね合いが難しいところです。
    母の場合は、点滴をやめたいと自分で言ったところで私がそれを受け入れられれば、
    ほぼ完璧(なんていうと不謹慎ですが)のタイミングでの旅立ちだったと思います。

    オムツの中で自分が排便する姿など想像すると、もちろんイヤだと思います。
    母がこうなる前の私だったら、その時点で死にたいと考えたでしょう。
    でも、その時点で、自分がこの世への執着をどこまで切れているかが大事で、
    プライドが傷つくという点より、それが優先事項ではないかと今は考えています。
  • 永岡 秀樹
    koalaさん、コメントありがとうございます。
    あの記事から間もなくお母様を亡くされたと知り、心が少し痛みました。
    お悔やみ申し上げます。

    さて、この問題については唯一の正解というのはないのだと思います。

    ぎりぎり言えることがあるとすれば、元気な時から夫婦や親子で話をしておき、
    少なくとも互いの価値観を知っておくべき、ということくらいでしょうか。
    そして実際に「決断」を迫られる時が来たら、やはり基本となるのは本人の意思だと
    思います。

    私自身、自分自身についてはもちろん、身内についてもシビアな決断を
    迫られた経験がないので、今後考え方が変わることはあるかもしれません。
    変化は受け入れようと思います。

    koalaさんは、ご自身がお母様と同じ病状になったとしたら、
    どのようなことを望まれるのでしょうか。
  • 今頃こちらを拝見しました。
    「人間の尊厳がわかっていない」という言い方は確かに傲慢でした。
    私はあの時、母の命がいとおしくて、その気分で書いていただけで、
    一般論として主義主張があって書いたものではないのに、
    明らかに一般論としての書き方で断言していましたね。失礼しました。

    終末期医療をどこまで望むかという問題は、個人差が大きいことです。
    母はもっと早く点滴をやめて、自然に枯れるように亡くなりたかったでしょうに、
    私は母を失いたくない欲から、点滴の続行を求めました。
    でももう限界だったので、私の抵抗はわずか一日のことでしたけれど、
    でもその一日が私の心の中にはトゲになって刺さっています。
    母がやめたいと言った点滴を、私が続行を求めた事は、間違っていたと思います。
    母の命なのですから、母の決定を重んじる義務があったのです。
    この傲慢さには「人間の尊厳がわかっていない」と書いた傲慢さと通じるものがあり、
    私の中に根を下ろしている問題点だと思いました。

    自分で自分をコントロールできない度合いが増す事は、大きな苦痛だと思います。

    自分で自分がコントロールできない経験も、苦痛でも大事なのか、
    それともそれは断固として拒否すべき事なのか。
    私にはまだ結論が出ていません。
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