死生観があってこそ

人口の重心が高年齢層に傾いていく我が国では、老いや死というものが「国民的関心事」になっていくのは間違いありません。

自身が老いていき、死に近づいているという人はもちろん、医療や介護の仕事に従事する人、あるいは親の介護や看取りに向き合う人に取っても、老いや死は身近な問題です。自分のことと他人のことでは切実度が違う、というのも確かでしょうが。

さてそんな時、ある程度しっかりした死生観がないと、よく言う砂上の楼閣になるのではないだろうか、という気がしています。自分のことであれば、意見や意思がぐらつく。ケアする側であれば、過度に入れ込みすぎたり逆にケアされる側を置いてけぼりにしたりする。

生前準備においても、そうです。あえて挑発的な言い方をすれば、「まとも」な死生観がないと、死への備えも薄っぺらなものになるのではないでしょうか。一部で好ましいものであるかのように言われる「自分らしい逝き方」という表現にも、そうした軽薄さを感じてしまいます。死に装束がどうとか、葬式でどんな演出・趣向を設けるかなんて、少なくとも死にゆく上での優先的な問題ではないはずですよね、ほとんどの人にとっては。

上で「まとも」な死生観と言いましたが、正しい死生観とは言っていません。万人にとっての唯一解としての死生観などないでしょうから。各人が生きてきた中で見聞きしたお別れの経験、そして古典や宗教など先人の知の結晶、そうしたものを踏まえて自分のお腹に落ちるかどうかが全てです。

まともかどうかは結局、自分が死に向かって行くにあたり、心を落ち着かせてくれたり支えてくれたりできるかどうかにかかっています。いくら言葉の上で美しくても、いざというときの「お守り」になってくれないのでは何の価値もありませんからね。

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