「感動ポルノ」という語が怖い

投稿者: | 2016-08-30

NHK Eテレの「バリバラ」が、日本テレビの毎年恒例大型企画「24時間テレビ 愛は地球を救う」に対する批判を繰り広げた、と話題になっています。

24時間テレビを「感動ポルノ」と痛烈批判  NHK障害者番組バリバラに絶賛の声 – Excite Bit コネタ(1/2)

私自身はこの番組を録画したものの、まだ観ていません。メディアが障害者を取り上げる際に(特にテレビにおいて)偽善や欺瞞のようなものが付きまとっているのは確かなので、この試み自体には拍手を送りたいと思います。

もともとこの番組「バリバラ」は障害者に対する偏見や紋切り型を打破することを趣旨にしていました。日本人ならほとんどが知っている「24時間テレビ」を敵に回すことで一気に知名度を上げてやろう、という思惑もあったことでしょう。「バリバラ」を称えたネットユーザーたちが今後も継続してこの番組を観るとは、さすがに思えませんが。

ただ私にとって気がかりなのは、「感動ポルノ」という語が一般に知れ渡ることで、かえって変な風潮が生まれはしないだろうか、ということです。障害者に限りません。子供や動物、難病を持つ人や社会的に不遇な立場にある人などの頑張りに目を向けることが一切合切「感動ポルノ」という語のもとに切り捨てていかないだろうか、と。「感動ポルノ」という言葉の響きが強烈なだけに、一種のファシズムのような風潮が生まれることを恐れます。

それは私にとっても他人事ではありません。死生学においても「死のポルノグラフィー化」という概念があります。死について真摯に考えることは多く場合感動やある種の興奮を生むわけですが、それに対しても「ポルノだ!」と決めつけ、自分に対してはやましいことのように思わせ、他人に対してはそれをやめさせようとする、そんな風になってもらいたくないものです。

「感動ポルノ」にしろ「死のポルノグラフィー化」にしろ、その指し示す中身には大いに共感するところがあります。それだけに、こういう強烈である意味下品な語が広く使われるようになれば、デメリットの方が上回るのではないかと危惧するわけです。今後「感動ポルノ」という語を使う人には、その点を自覚してもらいたいものです(といっても、そうした点に気が回らない人ほど安易に使いそうで、困ったところです)。

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