グリーフについていくつかの考察

投稿者: | 2009-01-09

ある方のブログで、こんな新聞投稿のことを知りました。

今日の夕食 広島県福山市・新矢洋子(主婦・70歳)(毎日jp)

ひとり息子さんがこの世を去って7年。

聞けば食事の支度もままならず、もんもんとした日々を過ごしていると寂しそうに言う。亡き息子さんとの至福のひとときを思い出し、友は涙ぐむ。その泣き顔を見ると悲しくて切ない。

子を亡くした人の気持ち。子を持ったことのない私には、わかるはずはありません。でも、死後7年経っても悲嘆に暮れているというのは、やはり度が過ぎているように思います。このご夫婦にだって自分の人生があるわけですから、いつまでもメソメソしているのは良くありません。もし前に踏み出そうとしないのであれば、「悲劇の主人公を気取っている」というそしりは免れないんじゃないでしょうか。

もちろん、死後の一定期間、悲嘆に暮れるのはやむを得ないと思います。また、いったんそれを乗りこえても、何かの拍子に心の傷がうずくことは当然あるでしょう。でも、そうしたいわば健全な悲嘆と、ここにあるような病的な悲嘆とは別物だと思います。この投稿者のように悲嘆に「ごほうび」をあげるのは、事態の好転にはつながらないんじゃないでしょうか。お気持ちは、尊いと思いますが。

ここまで行けば、カウンセラーなど専門家の介入が必要かと存じます。

グリーフについては、もう一つ、こんな記事も。

死産・新生児の死:亡き子への思い、支えて 病院の対応に傷つく親多く(毎日jp)

せめて遺族の悲嘆をかきたてるようなことはしない、というのは医療機関も配慮してしかるべきでしょう。でも、積極的にグリーフケアを施すことは、病院の責務といえるかどうか、大いに疑問です。グリーフを克服することは結局当人にしかできず、周囲はせいぜい、その本人の「立ち直ろうとする力」を後押しすることくらいしかできません。その意味で、安易に「医療機関もグリーフケアを」と口にする人には、何と浅薄な人間観の持ち主かとの印象を禁じ得ません。病院については、すでに過重負担が問題になっていることでもありますし。

さらにもう一つ、ペットロスについてのこんな記述。

愛するペットと同じ墓に入れるか? – 日経BP セカンドステージ

著名な学者が、かつてはペットロスについて「人間ではないのだからペットロスを大げさに言うのはどうかと思う」と発言していたのですが、いざ自分が飼っている犬に死なれたとき、「前言を取り消す。わが家の飼い犬が死んだことで私は家族を喪った、あるいはそれ以上の悲しみを体験した」と告白したものです。

本人の抑圧と、周囲の無理解や同情の無さが悲嘆を重くする、という機微があるように思います。むしろ「大切な人(それはペットも同じです)を亡くせば、悲しんで当然」と当人も周囲も思っていれば、悲嘆はそれほど重くならず、長引きもしなくて済むんじゃないでしょうか。

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