親を喪(うしな)うということ

投稿者: | 2009-01-13

8日の産経朝刊に、久田恵さんが印象深いコラムを書いておられます。

母親が遺した短歌を通じて、亡き母に思いを馳せることが多い、とのこと。コラムは、次のように結ばれます。

家族がいてもいなくても(MSN産経ニュース)

先日読んだ本に、他者を理解するには人生は短すぎる、というフレーズがあったけれど、親とか子とか夫とか、身近にいる他者であればあるほど、分かったつもりのままでいて、分かろうとする努力をしないのかもしれない。

 母の遺(のこ)した短歌を手にとりたくなる度に、そうかあ、親を理解したいという子の思いは、親を喪って初めて生じるものなのか、と思うことしきりである。

まず、自由遺言を提唱する者の手前味噌ですが、言葉を遺しておくことの大切さを再確認しました。書いた言葉があれば、何年経ってからでも追想することができますから。

一方で、ここでは短歌ですが、こういう情報量の少ない言葉や、場合によってはモノも、受け手の側の思考を促す点で、饒舌な言葉より優れているかもしれないとも思いました。自由遺言では「メッセージ」が一つの中心ですが、ここで何もかも伝えようとするのは無理ですし、「伝えるぞ!」といった感じであまり力まないほうが良さそうです。

カッコ良く言えば、親自身が自分の人生を真摯に生き、それを見せること・伝えることこそが、最良のメッセージなのでしょうね。

さて、末尾の「親を理解したいという子の思いは、親を喪って初めて生じるものなのか」という一節。私自身は親を喪ったことがありませんので、以下は想像、ないしは机上の空論です。

親というものは、自分がこの世に生を受けた時にはすでにいた。だからまさに空気のように、いて当たり前の存在。だから生前はそのありがたさが実感できず、亡くなって初めて親の存在の大きさに気付くということなんだと思います。

同時に、親の存在は安心感・拠り所のようなものでもありますから、「親のいない人生」に向けて、いろんな心の作業が必要になります。親の人生を総括することだったり、親から引き継ぐべきものを点検し直したり、等々。

久田さんが母親の短歌をかみしめているのは、まぎれもなくグリーフワークです。グリーフワークというと悲嘆の癒しが強調されがちですが、心の中に親をちゃんと位置付けて、親亡き人生に向けて歩んでいく営みはすべてグリーフワーク。その意味では、こうした広義のグリーフワークは、結局当人が生きている間に完結することはないのかもしれません。

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