気持ちは変わるから・・・

投稿者: | 2017-02-26

終末期医療に関する意思表示において解説している文章を読んでいると、「気持ちは変わるものだから」といった主旨のことをよく目にします。

ピンピンしていたときに「こうしてほしい」と思い、口に出してきたことと、病気になり心身が弱ってきてからの思いでは、多少違ってくるのは当然でしょう。可能性だったものが、一つの現実として身に迫ってくるわけですから。

そういう言わば「変心」があり得ることをどう捉えたら良いでしょうか。

心は変わるものだから、考えたり意思表示することに意味はない、という立場の人もいるようです。私はそれには反対です。それは可能性や想定の世界から逃げているだけで、結果的にそういうスタンスでいた人の方がいざというときに心が揺れ、自分がどうしてほしいのか決められなくなってしまうのではないでしょうか。

あるいは、意思表示するタイミングを逸してしまい、家族に意思決定を丸投げし、大きな負担を負わせることになりますまいか。いずれにしろ、責任感のある大人が取るべき態度とは思えません。自分がそうした選択をしないのはもちろん、周囲にそういう人がいたら軽蔑することでしょうね。

もう一つ、気持ちは変わり得るんだからいざとなったら遠慮なく前言を翻して良い、という立場があります。一度行った意思表示は変更不能であるというのはナンセンスですが、「気軽に」「遠慮なく」というのを強調しすぎるのも好ましくないように思います。

それまでの意思は、何十年か生きてきた経験や見聞から導き出されたはずです。病気になってからの一種の気の迷いをそれより優先させるのは悪しき本音主義と言えないでしょうか。気が変わったからと言って約束ごとや取り決めを気軽に破棄していいとなったら、世の中の秩序はかなり失われますよ。

終末期についての意思表示は一義的にはおのれ自身に関わることなので、当人の意思が最優先されるべきなのは当然です。ただいったん行った意思表示はおいそれと引っ込めるべきではない、という風潮にしておいた方が何かと好都合かと思います。それは本人にとっても。そうして言わば退路を断っておけば、気の迷いが生じたりそれに振り回されたりすることが少なくなるのではないでしょうか。

意思表示の変更は場合によってはやっても良い。ただしそれは、自分のそれまでの生き方、信念をひっくり返すことであって恥ずかしいことなのだ、くらいに観念しておくのがよろしいかと。

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