神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件から1年が経ちました。
新聞・テレビなどのメディアでは、遺族や障害者などに取材し、「障害者の命の大切さ」を訴えるものが多かったように思います。
再発防止を目指したものであることは明白です。
ただ実際のところ、被害者が障害者だったからといって他の大量殺人や大事故・大災害とは違った扱いをするというのは、それこそ差別なのではないのか、という思いを禁じ得ません。
事件後、ネットなどを中心に犯人の行動を「義挙」として称える向きも一部にありました。それに反発するあまりきれい事を並べたとしても、障害者に対する目は優しくなるどころかかえってますます冷たくなるような気がします。
※もちろん私は犯人を称えるつもりは一切ありません。さっさと死刑にすべきと考えます。
人の命の重さは平等。それは確かです。けれどその命を維持するためによけいな費用や人的な手間が掛かるとしたら、当人やその家族は何らかの負い目を感じてしかるべきではないでしょうか。
障害者が人口の1%以下とか極端に少なくて、社会にもありあまる富があるならば、「そんなこと気にするなよ」と言ってあげられるかもしれません。けれどこれからの日本は高齢者の割合が増え、いわば負担の押し付け合いがどんどん過酷になっていきます。
障害者をめぐるきれい事の言説は、その点を踏まえていないという点で非現実的であり、ひいては障害者当人のためにもならないと思います。たぶん我々と感覚のあまり違わない、物わかりの良い障害者や家族はメディアにとって「おもしろみ」「ありがたみ」がなく、そのためになかなかそうした声が出てこない、というバイアスもあるのでしょう。
京都新聞に障害者のこんな言葉が載っていました。脳性まひの方だそうです。
京都の障害女性、「共生」実現へ訴え 相模原殺傷1年 : 京都新聞
特に大きな声が出せない人たち、意思をはっきり言葉にできない人たちの命が狙われる。尊厳死、出生前診断でこの世に生まれる前の声のない命。死へのメッセージを社会から浴びせられる。
死ねば良いのに、と心で思うのと実際に手を掛けて殺すのは全然別です。けれどこういう言説を耳にすると、「(障害者は)死ねば良いのに」と思う人はかえって増えてしまうのではないでしょうか。
上では尊厳死のことが挙がっていますが、一部の障害者・難病団体の横槍のせいで安楽死はおろか尊厳死すら法的にあいまいなままに置かれている日本の状況に対して、私は強い憤りを覚えています。「お前らは、何の資格があって我らの幸福追求の邪魔をするんだ!」という気分です。「向こう側」の人にはこうした意見・感情は全然ピンと来ないでしょうね。これだけお互いに認識のギャップがある以上、議論しても無駄という気がしてしまいます。
ともあれ、良くも悪くも日本の社会にはどんどん余裕がなくなっていきますから、それを踏まえない議論は無意味、場合によっては有害なものとなりえる、ということは強く訴えたいです。