認知症当事者による発信に思うこと

投稿者: | 2017-07-31

この数年、認知症の当事者による発信が目に見えて増えてきています。

こうした流れが出てきたことに関しては、いろんなきっかけや要因があるでしょう。海外の潮流が輸入されたとか、日本で認知症の国際的なイベントが開催されたとか、幾人かのカリスマ的な当事者がメディアに気に入られているとか。

とにかく、表現は違えどいろんな当事者が「認知症になっても人生終わりではない」というメッセージを発することは、社会の認知症に対する見方や対応を着実に変えつつあることと思います。

そのことはこれから認知症になる人たちの「不幸度」みたいなのを下げることにつながりそうです。また社会の対応が変われば、認知症の症状そのものも軽くなり、あるいは悪化のスピードを緩やかにする効果があるかもしれません。

当事者として発信し、さまざまな社会的な活動・運動を続けることは、当人にとっても生きる意味みたいなのを感じさせるものとなっていることでしょう。これらの意義は、いくら評価してもしすぎということはありません。

ただひねくれたところのある私などは、こうした素晴らしい当事者の発信を目にしながらも片方で「そうは言っても、いつまでも発信できるわけじゃないだろう?」ということを思ってしまいます。彼ら・彼女らが言うように、認知症になったからと言ってすぐに何もかもがわからなくなってしまうわけではないでしょう。それでも人により早い遅いはあっても、記憶などの知的能力が失われ、人として残念な状況になっていくのは確かです。認知症の当事者による発信というのは、実際にそこまで進行した人たちの声を含んでいないという点で、コトの一面でしかない、というのも否定できないと思います。

個人的には、今現在当事者として発信している人たちには、認知症の現実をどこまでも(できれば死ぬまで)社会に伝え続けていただきたいと考えます。テレビの継続取材をうけるなり、医師やケアワーカー、あるいは家族などのケアラーに発信の引き継ぎをあらかじめ頼んでおくとか。できる間だけ格好良く発信しておきながら、わからなくなったら社会から消えるというのでは無責任と言われても仕方ありません。当事者発信の意義を理解するだけに、そこまで突っ込んで考え、手を打っておく人が現れてほしいものだと願っています。

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