生きがいに「貴賤」はあるのか

投稿者: | 2017-08-14

基本的に、各人がどんな生きがいを持っていきるかは各人の自由です。

またどんな生きがいであっても、「無いよりはマシ」というのも確かでしょう。ただ、人を真に奮い立たせる生きがいとそうでないものがあるのは間違いありません。

端的に言ってそれは、おのれ一個の人生を超えたものを含んでいるかどうか、だと思います。それがあれば当人にとっては人生の中でどれだけ追求しても終わりがないだけに、ずっと持ち続けることができます。そうでないと、自分の中で満足しているだけで結局虚しくなってしまうのではないでしょうか(仮に虚しくならないとしたら、その人の人間観・幸福観に問題ありと言わざるをえません)。

また他人から見ても、エゴを超えた生きがいを持っている人に対しては尊敬もするし、応援したくもなるのではないでしょうか。「志」についても言えることですが、個人を超えたものを志向することで人々が結びつき、巨大なプロジェクトが推進される。結果として個々人が満たされる。人間社会とは、そういうものだと思います。

もちろんあまりに遠大すぎる目標では、途中で気持ちが挫ける可能性があります。また子供時代など人生の早い時期からこうしたことに気付くのはなかなか難しいでしょう。それでも、ある程度人生経験を経たらこうしたことに自ら気付き、おのれの生を超えたテーマを自らの生きがいとするようであってほしいものです。

自分と同じくらいかそれよりも長く生きていて、こうしたことに対して全く無頓着な人を、私は軽蔑します。

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