仏教の僧侶や高齢の作家にチラホラ見かけますね。
「終活(生前準備)なんてやめておけ!」といったたぐいのことを言ったり書いたりする人。
自分が「やらない」というならまだしも、他人に「するな」と諭すのは余計なお節介だろう、という気がしなくもありません。まあこれは、自分がするから他人にも勧める、という場合でも余計なお節介なことに変わりはありませんが。
それはさておき、生前準備にもいろいろある中で特定の項目というか行為について無為を決め込む、というのはあって良いことだと思います。それとは違って生前準備を一切しない、というのは私には考えられませんね。愚かであり傲慢ですらあると考えます。
その点で「生前準備は不要」と唱える人は敵、なんです。
どうもそういう人たちの中では、生前準備は自分のせせこましい希望を残った人に押しつけるものと考えられているようです。また、眼前の生活を充実して生きることを阻害する行為とも考えているフシがあります。「生きることを大切にせよ」みたいな教訓が付け加わりますから。
いずれも、そうなる危険性はあるにしても生前準備することで必ずそうなる、とは言えません。むしろ残った人の負担を軽くする思いやりの行為であり、また残された人生をより良く生きるために不可欠の行為であることの方が多いのではないでしょうか。圧倒的に。
生前準備に関して「何をするか」「どうするか」については私もいろんな人と語り合いたいものです。生前準備の各論と申しますか。けれども、生前準備という行為を全否定するような人が相手では対話の糸口すら見つかりません。私としては、そういう議論は無視するしかありませんね。また、そういう議論に賛同する人を一人でも減らして行きたいものです。
ちなみに、人々の死の現場に近いところにいる医療者や遺品整理業者などで「生前準備なんてやらない方がいい」と言っている人はほとんど見たことがありません。その意味で、生前準備不要論は机上の空論なんですよ、きっと。