裁判の限界とでもいうべきものを痛感させてくれる記事。
裁判で本音語れぬ医師(YOMIURI ONLINE)
訴訟は、双方とも「いかに勝つか」が目的で、自身に不利な議論はしない。Bさんは、裁判からは医師として学ぶものがなかったと感じている。「処置の何が問題で、どう対処すれば事故を回避できたのか、裁判が終わった後、院内ではもう話す雰囲気ではなかった。具体的な問題や改善方法がわかれば、せめて次に生かすことができたのに」
当事者が率直に話し合って、建設的な改善案を見出していく。少なくとも、今の裁判はそうした理想を実現するにはほど遠いものであるようです。いや、もしかしたら、裁判という構造が、本質的に建設的であることを許さないのかも。
報道などでは時折「クソ弁護士」と言いたいような人を見聞きします。依頼人を勝たせるため、強引な理屈を編み出したり、社会にとってマイナスになるような言いがかりをつけたり。狭い利害のために公益を傷付けて恥じるところがないとしたら、「プロ」の名に値しないと思います。「三百代言」という罵りこそふさわしい。
我々としては、裁判以外の紛争解決手段を育てて行く必要があるでしょう。