評論家の西部邁が自殺しました。
かねてから病気を抱えていたそうで、衰え行き自分で自分のことができなくなる惨めさを思い自らの手で始末を付けた、という感じでしょうか。奥さんに先立たれたことが「生きる意欲」に影響していたかもしれませんし、思想面・知的な面で仕事への意欲がなくなった、薄れたということがあったかもしれません。
私から見ると西部邁という人は、保守主義とか大衆批判などでそれなりに影響を受けた思想家の一人です。著作を5冊程度読んでいるでしょうか。そして「朝まで生テレビ」で何度もその語りを耳を傾けたことのある人でした。
ただ近年は愚痴っぽくて言論がどんどん過激になっていく耄碌ジジイみたいに見えていたので、本を読んだことはありませんでした。遺著となった講談社現代新書「保守の真髄」は手に取ってみようかと思いますが、それ以外の著作は今後も読むことはないでしょう。私にとってはすでに知的な面で「死せる存在」だったのです。
西部の死を知り、文芸評論家の江藤淳が自殺したことを思い出しました。Twitterで検索してみましたが、同様の人はかなりいましたね。あと須原一秀「自死という生き方」のことも再読したくなりました。
日本ではインテリの自殺はそう珍しくもありません。読書で自己形成してきたと自認する私も、普通の選択肢としてとらえているフシがあります。「いざとなったら自殺するかも・・・」と。
今後生命科学が進歩して果てしなく寿命が延ばせるようになったら、つまるところ当人が「この世とはもうオサラバだ」と決めた時が死に時、という風になるかもしれません。薬物を投与するのか単に寿命伸長テクノロジーを「オフにする」のかはわかりませんが、人の死はみんな広い意味での自殺という風になっていくのではないでしょうか。
さて西部の自殺に関して言えば、寒い時期に入水自殺という形で多くの人の手を煩わすような「はた迷惑」な方法を選んだことが疑問です。娘とは同居しているということなので、娘を第一発見者にしたくなかった、とかそういうことでしょうか。
あとは、西部に限ったことではありませんが、本をたくさん出している言論人ならば、世間へのメッセージを遺書として残してほしかった。そしておのれの著作物に対するポリシーについても表明してもらいたかったものです。
先に挙げた「自死という生き方」は現在絶版となっており、古本などで入手するか図書館で借りるかしかありません。当然電子版も出ていませんし。
西部邁の著作も、遠からず誰からも読まれなくなってしまうことでしょう。少し寂しい気もしますが、これだけ情報の流通量が多く時代の変化が激しいと、忘れ去られるスピードも早くなるのは致し方ないことです。だからこそ、死後も自分の書いたものを人に読んでもらいたかったらそれなりの手はずが必要なはずです。