仏教も世につれ

投稿者: | 2009-02-28

興味深いブログ記事を見つけました。

能登半島地震 被災から675日め(愚迷釋啓了)

人は亡くなると即座に浄土へ往生するので亡者となって迷うことはなく、従って故人の冥土の幸福を祈り、霊魂の成仏を願って追善供養を営むことは不要なこと。
供養とは、亡き人を偲び、ご恩に感謝し、そのご恩によって育てられ生かされている私が生き生きと生きること。
仏事は、亡き人のご恩に報いる生きざまができているか一人一人が確認する場。
私は機会があるとこのような話をさせていただくのですが、若い頃は先輩の住職さん方から、そんな話をしていると誰も法事等のお参りをしなくなってしまうと忠告されました。

さすがに同業者同士の話だけあって、本音が垣間見られて面白いです。「お参りをしなくなってしまう」の後に言葉を補うと、「おまんまの食い上げだぞ」ということでしょうか。

この方のお話については、おおむねもっともだとは思うのですが、供養とは、とか、仏事は、というように特定の見方・考え方を押しつけようとしているところには疑問を覚えます。こうした場に「権威」はそぐわないんじゃないでしょうか。

インターネットを見ていると、慰霊や追善供養を否定する法話に対して批判的な若い僧侶が多いようです。

これは少し意外です。若い僧侶で慰霊や追善供養を重んじている人の言説、今度探してみようと思います。

上記の葬送儀礼の変化を読み、私は、日本の社会が釈尊や親鸞聖人の教えに近づいてきたのではないかと思いました。

釈迦は何となく分かるのですが、親鸞についてはピンと来ません。彼の思想や生き様についても、もう少し勉強する必要がありそうです。個人的には、日本人のあの世観や死生観は、仏教以前というか未満というか、かなり古い日本人のそれに回帰しつつあるんじゃないか、という感触を持っています。

また、社会が慰霊や追善供養を求めなくなっているのに、僧侶の側がその意識の変化に着いて行けなければ、仏教は廃れていくままではないかと思います。

庶民の意識の変化に僧侶がついて行かないと、仏教が廃れる。恐らくその通りでしょう。でも、付いていった先には、仏教のあり方そのものも大きな変容を迫られることでしょう。その辺、もしかしたらこの方と私は異なる未来図を持っているかもしれません。もちろん私は、仏教界の人間ではありませんが。

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