4月にアルフォンス・デーケンさんの新著が出るのを知りました。
そこで次のツイート。
アルフォンス・デーケンさんの言説に初めて触れたのはいつ頃でしょうか。たぶん1990年代前半、本ではなくテレビ(もちろんNHK教育)だったかも。
まだ内容紹介すら出ていませんが、今から読むのが待ち遠しい・・・。 https://t.co/JtKmen4RIG
— 永岡秀樹@生前準備デザイナー (@kokoro_yuigon) 2018年3月7日
この四半世紀ほど、あるいは平成に入ってからの30年で日本人の死への向き合い方は劇的に変化したかと。でも、まだまだですよねぇ・・・。道半ばというか、そもそも善い方に進んでいるのかすら定かではありません。
— 永岡秀樹@生前準備デザイナー (@kokoro_yuigon) 2018年3月7日
生前準備はしないよりもしたほうがまし、とはひとまず言えるでしょう。けれど現状は、必ずしも好ましい方向に進んでいないように見受けられます。
それは墓や葬儀の営利事業者によって提唱され、終活という噴飯物のネーミングを付けられたところからボタンの掛け違いのようなものが生じているのだと、私は考えます。
まずは
「残りの人生どう生きるか」
「自分の人生を何のために使うか」
「自分が死んだあとの世界に何を遺せるか」
といった命題に対して、各人が真摯に問いかけ、拙くても自分なりの答えを導き出すところから始まるのではないでしょうか。
仮に一生の間でその答えに即した生き方ができなかったとしたら、その反省を後世に申し送りする、と。
終活を語るような人たちはよく「自分らしい逝き方」とか「自分らしい最期」みたいなことを口にします。けれど上記の視点に立てばそんなことはどうでも良くて、世界のために自分の命が意味のあるものであったかどうかということこそ、厳しく問わねばならないはずです。
こうしたことへの理解や気づき無しに死の準備をしても、あまり意味がないどころか、人生における大切なことから目を背ける目くらましみたいなことになりかねません。だから私も、同じように生前準備を推奨する人であってもその中身を厳しく追及していかねばならないと思っています。時には激しい批判を浴びせることも必要となってくるかもしれません。
そんな問題意識を持ちつつ、デーケンさんの新著を首を長くして待つことに致します。まだ内容紹介もアップされていないので、今のところは「どんなことが書かれているのかな」と想像するしかありませんが。