死という観念に魅せられて

投稿者: | 2008-03-14

私がなぜ遺言コンサルタントを志すようになったのか。一番の理由は、その社会的意義を考えた時、「一生の仕事とするに値する」と思ったからでした。ですがそれとは別に、いわば裏の理由があります。それは、私が幼い頃からずっと死という観念に魅せられてきたということです。


別に自殺願望があるわけではありません。ただ、自他を問わず死というものは私にとって、恐ろしいどころかどこか甘美で美しいものとしてずっとイメージされてきたのです。

子供の頃は戦争物・合戦物の映画や小説、ゲームに熱中し、20代にして尊厳死の宣言書にサインしました。また、振り返ってみれば、これまで何度か肉親や知人が死んで行きましたが、悲しくて泣いたことは一度もありません。不謹慎かもしれませんが、観念としての死は、私にとって性的オーガズムと双璧を成すようなゾクゾク感を喚起するものなのです。

■芸術作品に「死」は不可欠

というわけで、死をテーマにしていたり死が重要なモチーフになっている小説・映画・音楽等を鑑賞することは、私にとって仕事上の「研究」であるとともに、それ自体が人生の中の大いなる楽しみでもあります。

考えてみてください。古今の名作と言われている小説や映画などの中で、死が重要なモチーフとなっているものがどれだけあることか。主人公にとって重要な人が亡くなったり、主人公が最終的に死んだりする作品はざらにあります。またそこまで行かなくても、登場人物が命の危険にさらされたり、死者への追憶が語られることで死が顔を出すケースもあります。

あらゆる小説や映画などから死の影を一掃したとしたら、それらがどれだけ貧しいものになることか。想像しただけで、生きているのが嫌になります。

■「死」が生の味わいを深くする

そしてもう一つ、死という観念には大きな効用があります。死を視野に入れることで、生のさまざまな営みがかけがえのないものとして感じられ、その味わいが何層倍にも深まる、ということです。

たとえば食やセックスといった動物的営み。あるいは季節の移り変わりや年中行事。さらにはよく言われる「孫の愛おしさ」も、死への意識抜きには考えられません。これについては、永遠の生というものを想像してみれば、死のありがたみがわかろうというものです。無限回繰り返されるとしたら、今やっている営みに愛着など感じられるはずがありません。

間違いなく、死は生を輝かせるものとして不可欠なのです。

■私は死にこだわり続ける

今の私は37歳。自分の死が切実に迫ったものとして感じないからこそ、こんな「きれいごと」が言えるのだ、という面があるのかもしれません。けれどもこれから歳を重ねていく中でも死とどう向き合うか、身近な者の死をどう受け止めるかは、私の大きなテーマであり続けるでしょう。死という観念から顔を背けて結果として生そのものを貧しくしてしまうより、その方がましだと強く思うんです。

ということで、あと何年生きられるかわかりませんが、私はこれからも死にこだわり続けながら生きて行くつもりです。

死という観念に魅せられて」への4件のフィードバック

  1. 蜜路

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    今日和。蜜路と申します。
    当ブログの訪問者リストに載っていましたので、挨拶に伺いました。
    此れからも宜しく御願いします。

  2. 蜜路

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    今日和。蜜路と申します。
    当ブログの訪問者リストに載っていましたので、挨拶に伺いました。
    此れからも宜しく御願いします。

  3. ザアカイの木

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    訪問ありがとうございました。
    死について考えることはとっても大切だと思います。
    死は終わりではないからです。

  4. ザアカイの木

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    訪問ありがとうございました。
    死について考えることはとっても大切だと思います。
    死は終わりではないからです。

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