先日もそうした内容のつぶやきをTwitterで見かけました。
高齢者が葬式などで自分の好みを押しつけようとするようなエゴイスティックな行為だ、と決めつけたものの言い方。当人が生前準備をしないのはもとより、周囲の人がしていたとしたら批判的な目で見るのでしょうね。
人生経験の乏しい若者がこうした見方をしてしまうとしたら、それはある程度仕方ありません。けれど親などの身内を送った経験のある大人がそうした見方をするとしたら、残念と言わざるを得ません。
実態として生前準備はむしろ、残されたものに迷惑をかけたくない、負担をかけたくない、という気持ちから行われることの方が圧倒的に多いです。また遺族の側にとっても、適切に行われた生前準備があれば、感謝の気持ちこそ持つでしょうが「余計なことしやがって」みたいな気持ちになることはまれではないでしょうか。統計のようなものはありませんが、生前準備があった方がなかった場合より遺族が深刻なグリーフに陥るケースは少ないだろうと想像できます。
その意味で、生前準備の普及にいわば人生を懸けている私のような者にとっては、上記のような見方ははっきりと誤解であり偏見である、と断言します。こうした見方をする人が減らない限り、生前準備が「当たり前」の世の中なんて、夢のまた夢ですから。
なお、上記のツイートをしていた人も生前準備ではなく「終活」という言い方をしていました。このふざけたネーミングが誤解・偏見を助長している可能性も大きいですね。まずは終活という言葉をやめることから始めるべきなのかもしれません。