葬式は、誰のため、何のためにするのでしょうか。
誰のため?
「故人のため」というのは、ナンセンスです。当人は死んでいて葬式には参加できないのですから。やはり葬式は、まずは遺族のために行われるものでしょう。
ただし遺族にとっては、故人をきちんとした形で送ってあげられたという主観的な満足感が必要です。故人も関わっているのです。それを自己満足とか自己欺瞞と呼ぶことは、少し酷だと思います。故人がもし「あの世」から見ることができたなら、遺族が自分の死を受け入れてくれることは、うれしいものでしょうから。
というわけで、遺族自身の気持ちとして、故人に良かれと思って葬式を行うことは、自然でもあり、また望ましいとも言えます。第三者の説明や理解と、遺族の気持ちにはギャップがあって当然、ということです。
この問いについて
さてこの問いは、葬式はして当たり前、ということが前提になっています。でも今は、そもそも葬式は今のままでいいのかが問われている時代。問われるべきは、葬式は誰のためというより、何のためということではないでしょうか。そして更に、今の葬式のあり方は、真に遺族のため、あるいは故人のためのものになっているかということ。
葬式は、葬儀屋や坊主を儲けさせるためにある。そんなことを本気で考えている人はいるはずがありません。けれど実態としては、そういう側面が全くないと言えるでしょうか。
葬式が誰のためにあるかはともかく、葬式において遺族が中心的立場にあり、いわば主人公であるべきなのは否定できません。「遺族が主人公の葬儀」。家族葬にしろ直葬+お別れ会にしろ、その方向に向かっていることの表れと考えます。言うまでもなく、私はこれを適正化と見ています。
何のため?
最後に、葬儀の社会的機能を挙げておきます。詳しい考察は、また別途。
- 遺体を処置するプロセス。ただし丁重に
- 遺族が死を受け入れるプロセスの一環
- 故人抜きの社会関係(家族・親族、地域、職場等)を構築する第一歩
- 結婚披露ならぬ死亡披露
- 家族や親戚、地域共同体などの凝集性を高める