昨日の話題、週刊誌で「死後の手続き」特集が大流行りということに関連して。
サンデー毎日の最新号(2月19日発売号)では、「完璧な終活」という文字が躍っています。
「サンデー毎日」最新号は本日発売です。注目記事は、完全無欠の“身じまい”親が死んだらすべきこと▽公表まで1カ月余「新元号」を専門家が徹底予測▽東大、京大…難関10国公立大「推薦・AO」入試結果。表紙は刀剣男士の皆さんです。 pic.twitter.com/hpzbDpUMIG
— サンデー毎日編集部 (@tsunday3) 2019年2月19日
そもそも私は「終活」という言葉すら嫌悪していますが「完璧な」という形容をつけられると、ますます首を傾げたくなります。
生前準備はできるだけ早いうちから手を着け、折に触れて見直すべきものだと考えます。たださすがに、老い衰え、あるいは死につながるような病気に冒されたら「そっちのけ」になる箇所があるのは当然のこと。それこそ、100点満点じゃなくても70点、80点の備えができていれば、十分じゃないでしょうか。それを補ってくれる人が家族だったり専門家だったり、と。あとを託せる人を見つけ、必要なことを伝えておくのも生前準備の一環です、間違いなく。
「完璧な終活」という言葉には、そもそも人の死というものが共同作業あるいは社会的なものにならざるをえない、という意識が決定的に欠けているような気がします。
あともう一つ。それでなくても生前準備は「(必要性は)わかっちゃいるけど、手を着けるのが億劫」といった取り組みです。「完璧な終活」なんておよそ非現実的なゴールを出されたら、ますますやる気が削がれるのではないでしょうか。「面倒くさい」「自分には無理・・・」みたいな感じで。そのことも危惧します。
家族による介護なんかについても言われることですが、生前準備もだいたいとかほどほどでいいんだと思いますよ。良い意味での「いい加減」というか。