先日こんなニュースを知り、思わず声を上げてしまいました。「ここまで来たか!?」と。
「死を日常的に見たくない」 余命短い患者の「看取りの家」計画に住民反対 神戸 | 神戸新聞
望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。事業者側は、病院や高齢者施設への受け入れを拒まれたり、在宅療養が難しかったりする患者の「受け皿」を目指すが、住民側は「亡くなった人が出ていくのを見たくない」「落ち着いて生活できない」など、死を前提とする計画に拒否感を示す。
葬儀場や火葬場、ゴミ処理場なんかは昔から「迷惑施設」と言われ、新たに建設するのが困難でした。最近は保育園なんかもそうなりつつありますね。この調子だと、人がどんどん死んでいくのが当たり前の介護施設やホスピス病棟なども、今後は反対運動にさらされることが増え新規の建設が難しくなるかもしれません。
日本は21世紀の長い期間、年間150万人くらいの人が亡くなる「多死社会」を迎えます。既に火葬場は不足して都会では長期間待たされることも少なくないようですが、今後は「死に場所難民」とでも言うべき人が続出するようななるのではないでしょうか。特に低所得の人、身寄りのない人が最もしわ寄せを受けそうです。後期高齢者となった30年後の私も、たぶんその両方を満たす側ですけど。
根本には、戦後ずっと日本人が死というものを日常からそして社会から遠ざけてきたことがあるのだと思います。多死社会化がそれに歯止めを掛ける契機となるのかどうか。ともあれこのまま手を拱いていると、日本中で悲惨な死・惨めな死が続出するような気がします。
なお本件は神戸市での話題です。神戸で今大人の人たちといったら、何らかの形で阪神・淡路大震災に被災し、知り合いや親戚を亡くした人も少なくないはずです。その神戸ですらこんなことになってしまうというところに、更に深い絶望感を覚えます。
上のニュースを見た際、こんなことをツイートしました。
憲法25条に「やすらかに死ぬ権利」「尊厳ある死を遂げる権利」を付け加えたいくらいですわ、マジで。
— 永岡秀樹?生前準備デザイナー (@kokoro_yuigon) 2019年2月22日
これも、あながち冗談ではありませんぜ。将来の日本が安らかに死ねる国であってほしいものです。今でも十分とは言えませんが、もっと事態が悪化するのは、何としても食い止めたいところですね。