「病的な」悲嘆

投稿者: | 2009-04-14

あるブログで2ヶ月以上も前に言及いただいていることに、さっき気付きました。

遺言コンサルタントですか…-うつと付き合う自死遺族

「お前、何もわかっちゃいねえな」といった感じの扱いですが、私の遣った「病的な悲嘆」という言葉がブログ筆者さんのカンに障ったようなので、自己弁護を兼ねて少し考えてみます。

まず、いくつかお断り。「病的な悲嘆」というのは、私の造語じゃありません。グリーフについて語られる時には必ず出てくる表現です。あと、これはいわば診断上の用語であって、当人に向かって「お前の悲嘆は病的だぞ」などと言うはずはありません。あしからず。

その上で、病的な悲嘆とはどういうものか。

  • 悲しみに暮れるばかりで、日常生活(仕事・家事・元の人間関係等)に支障を来すようになっている
  • 「・・を喪ったかわいそうな自分」というのが、自己のアイデンティティ、生きる支えになっている

こんなところでしょうか。あと、こんなケースも、病的かも。

  • 自分の悲嘆が病的と思わず、病的とされることに反発する。つまり、病的悲嘆に安住する

これらについて「経過時間」は重要な要素で、通常の悲嘆は時間が経つとともに多少なりとも薄れて行きます。それがないか、場合によっては時間が経っても悲嘆は度を増すばかり、というのはやはり「病的」でしょう。ですので、たとえば死後1年程度であれば「破滅的」とでもいうほかない悲嘆でもない限り病的ということはありませんが、私が当初コメントした、子供の死後7年経っても悲嘆に暮れている老夫婦は、おそらくどの専門家でも病的悲嘆と断ずるだろうと思います。

病的な悲嘆となれば、専門家の介入が必要です(ちなみに私はその専門家ではありませんので、介入する意思も能力もありません)。ただその前提として、本人の「立ち直ろうとする意思」が絶対条件。それがなければ、いくら有能な精神科医・カウンセラーでも、癒すことなんてできやしません。

さて第三者の無責任な感覚ながら、ここで効果的なのは「亡くなった人が今の自分を見たら、どう思うだろうか」という自省を悲嘆者に呼び起こすことではないでしょうか。もちろん、面と向かって言えば済むというものではありません。

不謹慎ながら、故人が夢枕に経つ、といったことが案外最良の道のような気がします。

2009-04-16追記:この分野にもPC(ポリティカル・コレクトネス)の波が押し寄せて、いずれ「病的」という言葉が遣われなくなるかもしれません。けれども治療を必要とするほどの悲嘆が一定程度発生する、という現実が亜くぁるワケではありません。

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  1. ピンバック: 志の輪、広げよう。 » 悲嘆の効用

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