「自分らしい死」に意味はあるのか?

投稿者: | 2019-07-17

生前準備(終活)がらみでよく言われる言葉に「私らしい死」「自分らしい死」というのがあります。

生前準備についてあれこれ考えている私ですが、これは全くピンと来ません。死は死であって「らしい」というのには馴染まないだろう、と。よしんばそれが当てはまる場合があったとしても、見送った家族などが「あの人らしかったね」と言うならまだいいでしょう。死にゆくはずの当人が「自分らしく死にたい」と望むのは、はなはだ見当外れなのではないでしょうか。

生き様や人生全体がその人らしければ、おのずとその死にもらしさが表れるはず。仮にそうでないなら、死ぬときだけ何か企んだとしても薄っぺらなものに終わってしまうのではないでしょうか。死に装束や葬式でかける音楽に自分の好みを反映させる、といった程度の。

本来後半生になったら、自分の人生の総まとめみたいなものを意識するはず。そこを閑却して「自分らしい死」などというのを追求するのは、無意味どころか時間の無駄だ!とさえ言いたいです。

「終活」という名で語られることに対して、少なからぬ人が薄っぺらな印象、つまらないものという印象を持っています。それは「死」についての語りではあっても本質的な問題ではないことばかり騒がれることへの違和感みたいなものでしょう。そしてその直感、私も共有します。

終活という噴飯物の言葉を使って恥ずかしくないような感性の人には、きっと通じないのでしょうねぇ。こんな話。

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