「悲嘆」シリーズの第二弾。(前回記事は、こちら)
大切な人を亡くせば、程度の差はあれ、悲嘆に襲われるのは当然のこと。悲嘆に苦しみ、そしてそれを徐々に乗り越えていくことは、長い人生においてはプラスになることも少なくない。私はそう思います。
一言で言えば、それは感受性が深まる、ということだと思います。相田みつをだったか、「いのちの根が深くなる」という言葉を聞いたことがあります。ちょうどそんな感じではないでしょうか。あるいは、「もののあはれ」が本当の意味でわかるのは、悲嘆の経験者だけ、と言えるかもしれません。
ついでに言えば、悲嘆の経験者どうしには、当事者間でしか理解し合えないような感情の機微があるようです。身近な者の死が、新たな絆の糧となる、ということもありそうです。
人は生きていれば、周囲の者の死を否応なく経験します。それは避けがたいことですが、考えようによっては人が人として成長する最高の「教材」です。きれい事に過ぎるかもしれませんが、人は3人称の死からも2人称の死からも学び、最後に自分の死を迎える途上で、人生最後の成長ステージに至る、ということではないでしょうか。
ひるがえって考えるに、悲嘆は強すぎて長引きすぎるのも問題ですが、なさ過ぎるのも問題。悲嘆がわいてこないとするなら、それを無理に抑圧しているか、さもなければ、悲嘆も起きないほどゆがんだ感情の持ち主か、どちらかでしょう。