人が死と向き合うに際して、信仰はあったほうが良いのかどうか。
少なくとも私は、あった方が良いに決まっている、と考えます。生涯にわたって信仰を捧げてきた教えがあるのなら、死の間際までそれを抱えていけたらとても素敵なことではないでしょうか。人によっては死に直面して信仰が揺らぐ、あるいは消えるということがあるかもしれません。ただそれは別の話です。
さてかく言う私自身は、特定の信仰を持っていません。恐らく現代日本人のかなりの人たちがそうでしょう。それでいいのか、あるいはどうしたら良いのか、ということを考えてみたいと思います(はっきり言って、一生掛けて考え続けるべき、というくらいのテーマ)。
まず、無理矢理何かを信じようとするのは、ナンセンスです。上記の例とは逆に、不治の病に冒された途端、何かの信仰に目覚めるということはあるかもしれません。でもそんなのは稀でしょうし、金目当てのインチキ宗教かもしれません。とても推奨できることではありません。
でもそれ以前の心がけとして、目に見えないものへの畏敬の念みたいなものを持って日々を送ることは可能だし望ましいのではないでしょうか。お天道様でも亡くなった父母などご先祖様でも、あるいはアニミズム的な「神さま」みたいな観念でも良い。神棚のある家なら、あるいは近くにお社などがある家なら、それに無心で拝むというのもいいと思います。
そうしてガチガチの唯物論でない心持ちで生きていれば、案外死に際には素直にこの世を立ち去れるようです。そしてそれは、歴史的に多くの日本人が死を迎えるに当たって経験したことでもあります。その意味で、日本人にとって無理のない心がけでもある、と信じています。
逆にやってはいけないのは、「自分は目に見えるものや科学的に証明されたものしか信じない!」などと強がることです。やや偽悪的に「人は死んだらただのゴミだ!」なんてことを言う人も、そう。運気が遠のく、じゃないですけどそんな心持ちでは死に際にジタバタしたり醜態をさらすのがオチかと。
仏式でも神道式でも良いのですが、手を合わせて拝むという行為はとても良いものだと思います。それを習慣化できている人たちは、自分という個人の限界、そして人知の限界みたいなものを弁えている、と言えるのではないでしょうか。
科学のパワーに圧倒されがちな現代だからこそ、意識してそうした部分(いわば科学の埒外)に目を向け、おのれの生き方に取り入れて行くべきなのかもしれません。
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