生前準備への無理解と偏見をなくしたい

投稿者: | 2020-01-15

あるネット記事で、自分は生前準備なんて興味が無いしやるつもりもない、ということを高らかに宣言しているお年寄りの方がいました(御年93)。

その人は山形県酒田市に住む現役のバーテンダーで、地元ではちょっとした著名人なのだそうです(発言内容に不同意なので、記事へのリンクは張りません)。

生前準備をしない、というのは当人の自由です。私としては非難したり説得したりしようとは思いません。ただ生前準備を誤って理解していたりそもそもよく知らないで「必要ない!」と決めつけてしまう人がいるとしたらとても残念ですし、そうした人を減らしていくことも私の大切な務めだと思っています。

※なお私自身は、「終活」というふざけたネーミングはこうした無理解や偏見を助長するおそれがある、と感じています。なので自分からは使いません。

よく目に付く「誤解」には、次のようなものがあります。それぞれについて私なりの反論を記しておきます。

死ぬのはどうせ先だから、今は必要ない
自殺する人が死ぬ間際にやる「死に支度」と混同されているのでしょうか。一般の方の場合には死が近づくと意識が低下して意思表示できなくなったり、行動に制約が増えてきたりします。生前準備は元気なうちにこそやっておくべきことです。また確率は大きくないかもしれませんが、事故や災害などで不慮の死を迎えることがあるかもしれません。

生前準備をやるのにふさわしい年齢、いわゆる適齢期みたいなのはなくて、思い立ったら手を着けていく、のが良いと思います。たとえば30代だって、早すぎるということはありません。逆に60代くらいになっても何も考えていない、何も手を着けていないとなると誰かさんのセリフじゃありませんが「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と叱りつけたくもなりますけどね・・・。

家族に任せるから必要ない
生前準備は、家族などあとに遺された人への思いやりの行為でもあります。白紙委任で「あとは任せたよ」と後事を託すのは、信頼の証しのようでいて家族の負担を重くする無責任な行為だと思います。

望みを表明するのはエゴイスティックだ
これは私にとっては、どうしてそういう発想になるのか、理解しがたい部分です。たとえば葬式や墓について突拍子もない希望をする人なんて、そうそういないのではないでしょうか。ありもしないことを想定するというのは、「やらない言い訳」としか思えません。

人の生き死には思い通りなんかならない
生前準備は何も、自分の死をコントロールしようとするものではありません。過度な延命治療を拒絶する、というのはある面でそれに当たるかもしれませんが、終末期医療についての意思表示なり事前指示は生前準備のごく一部でしかありません。そして恐らく「本質」と言いうるような最重要な部分でもない。

自らの死を想定し、そのために必要な手はずを整えておく、あるいは死を射程に入れて残りの人生を組み立て直す、というのが生前準備の主旨だと考えます。理解できない人には、何歳になっても理解できないのかもしれませんが。

死の準備よりも日々を生きることの方が大切だ
生前準備という活動に手を染めると、生活の時間が奪われる。これはもっともらしく、ある意味では一番手強い「偏見」かもしれません。こう考える人たちの頭の中では、自らの死を思い浮かべそのために備える行為と、日々をよりよく生きる・いきいきと生きるということは無関係というか相反することとイメージされているようです。

私に言わせれば、前者は後者のためにも不可欠なんですけどね。たとえば彼ら・彼女らの考える「生活」なるものが単なる趣味だったり身体的・心理的欲求の満足に過ぎないとしたら、あまりに薄っぺらなのではないでしょうか。生前準備を忌避した中での生活なるものは往々にしてそうなりがちだ、というのが私の確信です。ほぼ必然とも言って良い。

こういう考えの人たちには、「あなたの理想とする生活とか人生って、どんなものですか?」と厳しく問いかけたいですね。

*** ***

いかがでしょうか。生前準備をすると気持ちがすっきりし、かえって前向きな生活を送れるようになった、という人が多いです。やって損はない、どころかやることには膨大なメリットがある、と声を大にして言いたいです。

やった人、メリットを実感した人がどんどん増えて、冒頭に紹介した頑固ジジイみたいな人が絶滅することを希望します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください