「どうせ死ぬんだから」という発想

投稿者: | 2020-03-12

連日、新型コロナウイルス感染症に関する世界中のニュースに気を揉んでいます。

日本の対応にはいろいろ不満・異議もありますが、まぁうまくやっている方なんじゃないかと思います。少なくとも、感染が地域や病院内で次々と広がって手が着けられなくなっている、というのにはまだほど遠い状態で済んでますからね。イタリアやイラン、それにもしかしたら韓国も、そうした悪しき流れにハマりつつあるようですし、欧州の小国や米国のどこかの州がそれに続いても不思議ではありません。

さてコロナウイルスへの対策を論じる上では、その人の死生観・生命観みたいなものが大きく影響するのだな、というのを強く感じるところです。いわば哲学みたいなところなので、ここが食い違っている者同士、かけ離れているものどうしでは、いくら真摯に議論しようとしてもかみ合わないんですよね。

それゆえに感染症対策を論じる者は、最低でもおのれの死生観・生命観がどんなものか、自覚しておいた方が良いです。別にそれを告白しなくても構わないとは思いますが。

私自身は「どうせ人は死ぬんだから」という考えを持っています。

こういうと投げやりでいいかげんな考えと受け取られるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。命には必ず限りがあるのだから、その与えられた期間は懸命に生きる一方、「その時」が来たらある程度のところで人生・命を諦める、ということも大切ではないかな、という立場です。そしてそこには、限りある人生だからこそ懸命に生きようという気も湧いてくるはずだ、という前提があります。

そんな私からすると、生命至上主義みたいな発想に基づく意見や提言は、だいたいにおいてまったく受け入れがたいものとなります。今般のことで言えば「人の命より大切なものはないから、感染の拡大抑止をすべてに優先させるべき」みたいな意見でしょうか。それで経済・社会がマヒしてしまったら、それによる国民の健康被害はコロナウイルスによる比ではない、と思うんですが。

ウイルスが猛烈に感染拡大し、何割というレベルで死に至らしめるような「死のウイルス」だったらそこまでするしかないのでしょう。けれど今のところ、新型コロナウイルスはそこまで破壊的なものではありませんからね。

この先世界的な収束までどれだけの月日が必要となるかはわかりません。いずれにしても私は、「どうせ人は死ぬんだから」とつぶやきながらこの件を見続けるつもりです。

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