尊厳死という「意思決定」

投稿者: | 2008-05-22

この前観たETV特集「安らかな最期を迎えるために ~尊厳死を考える~」は、いろいろなことを考えさせてくれる番組でした。

■意思決定は、継続していると「見なす」

中でも、尊厳死絶対反対派である弁護士の光石忠敬氏が「意思決定とか自己決定といっても、昨日と今日では主体は厳密には同一ではない」といった風なことを述べたのが、強く印象に残りました。

哲学的に言えば面白い議論になりそうな命題ですが、少なくとも法律的には「禁じ手」の議論だと思います。そんなことを言えば契約なんてものが成り立ちようがないですし、遺言のような単独行為に限っても、たとえば60歳で遺言した人が75歳で亡くなったとして、それを「こんな古い意思決定は有効期限切れだ!」と言いだしたら、争いの種を摘むはずの法律が、逆に争いの種になってしまいます。ここはやはり、いったん意思表示がなされたら、本人の心理はどうであれ、別の意思が表示されるまではその意思が継続しているものと見なすしかないでしょう。

とはいえ、「尊厳死のような人の命に関わることについては、他の法律行為とは比べものにならないくらい、意思決定について厳密な判定が必要だ。単に見なせばいいというものではない。」という人がいるなら、それはそれでもっともなことと思います。ではこれについては、以下のように考えればどうでしょうか。

■意思決定の振幅

まず、人の意思は状況の変化に応じて揺れ動くものだとしても、一般には意思決定を重ねるほど、また対象についての知識が増えるほど、その揺れの振幅は小さくなるはずです。もし小さくならない人がいるとしたら、その人は信用に値せず、その意思決定も軽いものだと言わざるを得ません。

ですから尊厳死に賛成か反対かに関係なく、危惧すべきは、人々があまり知識もないままに終末期医療について意思決定をして、それにいわば安住している状態です。そんな「にわか意思決定」では、何か状況の変化によって、意思決定が大きく変わりかねないからです。しかもそういう人に限って、新たな意思決定になお固執しがちです。

望ましいのは、人生のできるだけ早い段階で終末期医療について意思決定し、しかもその後もその意思が変わることを恐れず始終問い直しをし、さらには様々な学習を積んでいくことではないでしょうか。そうやって固められ、深められた意思決定は、少々のことではビクともしないはずです。もちろん、日本尊厳死協会がつくっている出来合いの「リビング・ウィル」にも飽き足らないでしょう。

■年をとるほど・・・

もう一点。人は一般に年を取るほど生に執着するものだとすれば、意思決定が延命を望む方向に変遷することに、我々は寛大であっていいと思います。延命を望まない方向に変わることももちろんあるでしょうが、その場合には本人がそれを表明することをためらうとは思えません。

ありそうなのは、以前より延命を望む方向に気持ちが変わったのに、周囲に遠慮して表明をためらう、ということです。延命を望む方に変わるのは少しもみっともないことではない、という風潮を我々は醸成しておきたいものです。

■まとめ

まとめると、意思決定が変わることに対して、本人も周囲も開かれているべきだということ。そしてその前提として、本人もたくさん考えるなり学ぶなりして、その意思決定を固め、深める責任があるということ。このようにして表明された意思表示を、周囲は尊重してあげるべきこと。これらについては、個々の死生観や尊厳死についての賛否を離れて、皆が合意できるのではないでしょうか。

尊厳死という「意思決定」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 最後の意思表示 | 志の輪、広げよう。

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