弔辞は、それを述べる人と対象となる故人、両方の人柄がうかがえて、とても興味深いものです。
ここでは、ヤン・ハーラン氏が私の好きな映画監督S・キューブリックへ捧げた弔辞の冒頭の部分を紹介したい。
「スタンリーは葬式が大嫌いでした。この数日、私は心の中でこの問題について彼と議論を続けてきましたが、こんなふうに言う彼の声がいまにも聞こえてくるようでした。
『葬式? 冗談だろ。俺はその手のものは嫌いなんだよ。とっとと忘れてくれ』
しかし、そういうわけにはいきません。
この手の集い、この手のお別れの会は我々の文化の一部であり、あまりに大きなものを失った悲しみを受け止めるのに必要なものだからです。」
最近だと、赤塚不二夫の葬儀でタモリが述べた弔辞は、胸に迫るものがありました。
親しい友人などであっても、相手のことを心底どう思っているかなんてことは、生前には口にしないものです(特に男性同士の場合には)。なので、故人と自分との関わりをまるごと振り返る弔辞というのは、貴重な機会です。
そして、葬儀やお別れ会などでいろんな人が弔辞を述べれば、故人が周りとどのように関わって来たか、周りからどのように見られていたかがいわば立体的に浮かび上がってきて、興趣は倍加します。お別れ会の核となる「コンテンツ」は弔辞(私に言わせれば、追悼スピーチ)だ、と私が考えるのも、その辺にあります。
なお、今後はそうした集いで述べる弔辞と並んで、ブログの追悼記事というのも大きな存在になってくるでしょう。リアルの世界の知人や親戚などの死より、有名人の死の方がショック、というケースが今後ますます増えるでしょうから。