悲しみをうちに秘めて

投稿者: | 2009-11-26

韓国・釜山にある室内射撃場での火災死亡事故に関して、こんなコラムが。

【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 静かな日本人 – MSN産経ニュース

韓国人にとって、釜山の事故での日本人遺族たちの姿はたいそう印象的だったようだ。日本でそうであるように、彼らは肉親を失った悲しみにもかかわらず韓国人のように泣き叫ばず、実に静かだったからだ。多くのメディアが「普通の日本人の節制された姿」に感心している。

その背景として日本人の「人に迷惑をかけない」という教育や「悲しみを外に出さないことが美徳」とする価値観などを指摘している。ある記者は「現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然(きぜん)とした姿と節制された言動は長くわれわれの記憶に残るだろう」と書いている。

たまに事故や事件で韓国人の遺族が泣け叫ぶシーンを目にしますが、確かに日韓でのこの辺の文化・作法は異質と言ってもいいくらい、異なっています。

ただ葬儀屋さんのブログで、「ここ最近は、火葬場で激しく泣く遺族をあまり見なくなった」という証言を目にしたことがあります。同じ日本人で比べても、昔より現代の方が、悲嘆の表現が控えめというか内向的になっているようです。この点に関しては、そもそも悲嘆が弱まっている傾向があるのでは、という疑いもありますが。

ともあれ、仮に家族を不幸な事故や事件で亡くしたとしても、度を失うくらい嘆き、泣き叫ぶのははしたないこと、カッコ悪いことだ、というのは、多くの現代日本人に共通する感性だと思います。

さてそれについて、こんなブログ記事が。

みとりびとは、いく: なぜ日本人は「慟哭」しないのか~悲しみを外に出さない美徳について。

葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。

悲しみがあるのだとしたら、それを適度に表へだすことは健全ですらあります。秘めてしまうと、悲嘆はより重く、長引くおそれがありますから。一方、悲しみ自体が希薄になっていて、そもそも表現しようにもその元となる「情」がないのだとしたら、それはそれで大問題です。

この辺の日本人の心や行動の変化は、注意深く見守って行きたいものです。

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