数日前、Twitterでアナルコ・キャピタリストという方としばし議論しました。同じ自由を好む者でも、こんなに考えが違うのかと、愕然としたところです。
私自身は、個人の自由を正当化する根拠は、結局功利主義的なもの以外にありえないと考えています。つまり、個々人の自由を増大させた方が、才能を開花させる可能性が広がり、結果として世の中が活性化するから、自由は守られるべき、と考えるのです。
その立場から言うと、いくら自由があっても社会の福利につながらないとか、いわんや自由の容認が福利を妨げるとあっては、「それじゃマズいだろ」ということになります。
端的には、経済的な自由を拡大するのは良いとしても、仮に固定化した貧困層が生まれるなら、何らかの手当て(手当ての中身については、別途書きます)が必要だと思うのです。自由を拡大すれば、世の中万事うまく行くとは考えられないし、現実にもそうでしょう。
貧困層は労働などを通じて社会に貢献するチャンスが少なく、時には治安の悪化要因となって、社会にとって迷惑な存在ともなり得ます。やはり、階級といいたくなるような固定的貧困層が生まれるのを容認あるいは放置することは、倫理的にも政治的にもあり得ません。
その意味で、社会思想の究極目的は、社会全体の福利を最大限増進することであって、自由の拡大とか擁護はそのための手段や条件でしかない、と言わざるを得ません。私はリバタリアンを自負しておりますが、決して自由原理主義者、自由至上主義者ではありません。