「保守」という石頭

投稿者: | 2010-12-27

先週、Twitter上で夫婦別姓についての議論が盛り上がり、私も何人かの反対論者とやりとりしました(私自身は、選択的夫婦別姓制度には賛成です)。

「議論」という言葉は、使いたくありません。基本的に自説をぶつけあっただけで、何ら生産的なものは生まれなかったからです。

痛感したのは、「こいつら、なんて頭が硬いんだ」ということです。とにかく絶対反対ありきで、こちらの言い分に耳を貸そうとしない。そして、あるのかないのか分からないような弊害を述べ立てて、現にある不都合には目をつぶろうとする。彼らから見れば私らの方が「いい加減」「思慮が浅い」ということになるのでしょうが、いずれにしろ「こんな相手と語り合っても、時間の無駄だ」と感じたことでした。

私も、以前は保守主義者の端くれを自認しておりました。そっち系の論壇誌を、毎月のように買っていたりもしましたし。でも今では、もし保守主義者がああいう人たちなのだとしたら、自分はそうではないと強く感じます。「一緒にされたくない」という感じですかね。

自分としては、可能な限り、現実に即した柔軟な考えを持っていたいです。自分の考えが現実に合わなければ改めるし、自説より優れた説を知れば、それを受け入れるなり取り入れるなりする。「可能な限り」と断るのは、それがいつも達成できるとは思わないからです。でも、自説を絶対に曲げないことを誇りのようにしている石頭よりは、だいぶましだと思いますよ。

なお、Twitter上でそうしたイデオロギーに染まった人の多くが、日の丸をあしらっています。日の丸自体には好感や愛着を持っていますが、あんなヤツらに弄ばれると、日の丸が分からず屋の象徴に見えてきて、少し悲しい思いをします。「日本を良くしたい」という思いに掛けては、私も彼らに引けを取らないつもりですが・・・。

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