仏教に求められるもの

投稿者: | 2011-04-21

宗教学者で作家の島田裕巳氏が、仏教に対して辛辣な批評を書いていました。

4月16・17日(土日)葬式仏教は皮相的なものとしてしか受け入れられてこなかった現実が今回の震災であらわになった気がする: 島田裕巳の「経堂日記」

被災地に、仏教の僧侶たちが救援活動に行っていることはよく聞いている。けれども、ここ2、3日の新聞を見ていると、救援物資を届けるといったことはともかく、本来の宗教者としての役割を果たそうとすると、厚い壁にぶちあたっているという記事を見かける。火葬場などで読経しても誰からも礼を言われないとか、死を連想させるので坊さんは来るなと言われたとか。死者の供養という、仏教に課せられている役割を果たそうとすると、それが受け入れられない。どうもそういう現実があるようだ。

日本では「葬式仏教」と言われるが、それは極めて表層的なものなのかもしれない。遺族が死者を送るために葬儀社を必要とするのと同じレベルでしか、僧侶が求められていない。被災地では火葬がままならない状況のなか、仕方なく土葬した遺体をすぐに掘り起し、改めて火葬している例もあるらしい。遺体をなんとかしっかりと葬りたいが、僧侶による供養などはとくに要らない。そうした感覚が、被災地のみならず、日本人全体にあるのではないだろうか。

地域にある旦那寺の住職なら必要だが、関係のない僧侶は、新宗教の勧誘と同じレベルで嫌われる。日本人は、文化としての仏教は求めているが、宗教としての仏教はまるで求めていない。そんな構図が今回の出来事を契機にあらわになっている気がする。やはりその意味で、日本人は「無宗教」なのだろう。

ホスピスなどに出向くビハーラでも、同じような苦情があるそうです。お坊さんというと、葬式や法事の時に来るもの、というイメージがあります。そんなお坊さんにまだ死んでいないうちに来られると、「縁起でもない」などと受け取られてしまうようです。

「葬式仏教」は、現在のお寺にとっていわばドル箱です。でもそのために、それこそご近所だとか檀家でもない限り、生きている人がお寺やお坊さんと関わるのを難しくしているように思えます。引用部分にある「新宗教の勧誘と同じレベルで嫌われる」というのは、言い得て妙なのではないでしょうか。

今すぐには無理でも、やはりゆくゆくは「葬式仏教」から脱却しない限り、日本人の仏教離れ、寺離れは歯止めが掛からない気がしてなりません。

そんな折、別のブログで良い言葉に出会いました。孫引きになりますが。

「般若心経に学ぶ発想の転換」(4/1): エムズの片割れ

「般若心経に学ぶ発想の転換
篠原鋭一(成田市・曹洞宗 長寿院住職)
・・・・・・
◎生きている内の「般若心経」
私は名刺の裏に次のように書いています。
「お寺には生きている間においで下さい。死んでからでは遅いのです。“仏教”はより良く生きるための“生き方”を説いています。生きている間に学び実行して下さい。死んでからでは遅いのです。」
般若心経の教えも生きている内に人生に活かさねば全く意味がありません。

我々庶民が求めているのは(もし仏教・お寺に何らかの期待をしていれば、ですが)、まさにこういうことなんだと思います。

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