社会のビジョン、個人のビジョン

投稿者: | 2008-08-16

いつも読ませてもらっているブログに、とても考えさせてくれる一節があったので、メモ。

「お盆」にソーリー(NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 – 大人の学びを科学する)

Kさんがかつて、日本企業40社弱のハイパフォーマーの方々を対象にして行った調査によると、「組織ビジョンの理解や認知」ともっとも相関が高かったのは、「個人が、自ら、目的・目標をもっているかどうか、あるいは、どの程度認識しているか」だったそうです。

 ここからはあくまで仮説ですが、個人として目標や志をもっていない人は、組織としてのビジョンを理解しようと自らさぐったり、意味づけたりする行動をとらないのかもしれません。

言い換えると、「個人として目標や志をもっている人ほど、組織としてのビジョンを理解しようと自らさぐったり、意味づけたりする行動をとる」ということですね。

相関なら、こうも言えましょうか。「組織ビジョンの理解や認知が高い組織ほど、個人が目標や志を持っている割合も高い」。

社会に、地域に、組織に、家族に、ビジョンがあることが当たり前なら、個人が志を持った人生を送ることも容易になる。そんな風に解釈したいと思います。

大人たちにとっては、自らが志を持って生き、それぞれの持ち場でビジョンを育んでいくことは、後進に対する、あるいは子孫に対する責務であると言えそうです。逆に、ビジョンを冷笑したりケチを付けたりすることは、「犯罪的」と言ってもいいほど周囲に害をもたらす行為だと考えます。

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