孤独死や孤立死をなくすには、どうしたら良いでしょうか。
考えられる「回避策」をまず列挙してみます。
近所づきあい
やはりこれが最強にして最も低コストの回避策でしょう。付き合いと言っても深いものである必要はなく、顔を合わせれば挨拶をし、時に立ち話をする程度で十分でしょう。ただマンションやアパートなどの集合住宅の場合、これが希薄だったり皆無なことが、問題を複雑にする元なんですよね。
親戚・友人による「見守り」
「次点」が、これでしょう。見守ってくれる親戚(親子関係を含め)・友人がいれば、多少発見まで時間が掛かるかもしれませんが、数週間あるいはそれ以上にわたって遺体が放置される、ということは起こりにくくなるはずです。
郵便や新聞配達などの事業者
最近の事件では、電気やガスなど公益事業者が矢面に立っていますが、ポストに郵便物や新聞があふれている、というのは「何か」があったことを疑わせるに十分な兆候です。長期の旅行というのでもない限り。ちなみに最近、埼玉県入間市でヤクルト配達員の女性が精神疾患のある男性を孤立死から救いました。このケースでも、新聞がたまっていることが決め手になったとのことです。
民間企業の見守りサービス
既にいろんなサービスがありますし、これからも増えていくことでしょう。食事などの定期的な宅配サービスが、見守りの機能を兼ねる、ということも増えていくのではないでしょうか。
NPOなどの見守り・支援
まだあまり盛んになっていませんが、今後はこうしたものももっと増えていくことでしょう。利用者が安価に契約できるサービスの開発が待たれます。
行政、警察、民生委員
これらも当然、一定の役割を果たすことが求められます。ただお金や人的資源の制約は今後ますます強まるでしょうから、それほど大きな期待ができないのも事実と思われます。
これらのうちのいくつかを組み合わせて、いわば多重バックアップで個人や家庭(とりわけ、障害者や要介護者のいる家庭、高齢者のみの世帯)を見守り、必要に応じて支援していく、というのが理想でしょうね。そのためにも、この社会の誰もが1人以上、できれば3~5人の人を見守る側に回ることが求められます。
そしてもう一つ。我々はかなり自由な社会を築いてきました。でも同時に、他人に干渉しない、あるいみで冷たい社会にもしてきたように思います。もう少し社会の「お節介度」を昔のように取り戻すべきではないでしょうか。そしてそのことは、自由な社会、個人主義的な社会と決して両立不可能ではないはずです。