尊厳死反対論の奇妙さ

投稿者: | 2012-04-07

尊厳死法制化が現実味を帯びるにつれ、反対論も熱を帯びてきました。

障害者や難病患者(とその家族)の団体、それに弁護士会といったところが、組織的に反対している例でしょうか。それに、学者や評論家の中にも強硬な反対論の人がいます。

「尊厳死に反対!」と言った時、二つの意味があり得ます。「私は尊厳死を望まない」というものと、「他人も含め尊厳死を制度として認めない」というものです。前者であれば、基本的には当人の自由です。他人がとやかく言うことではありません。問題は、後者の方です。

尊厳死は、終末期において延命治療を拒絶するという立場です。それを認めないというのは、全ての人に死の間際まであらゆる医療的措置を取ることを義務づける、ということになりましょうか。

反対論の方は、「いずれ望まざる尊厳死や、強いられた尊厳死が出る」という懸念を述べます。そうした可能性は、ゼロではありません。ただその可能性は、運用いかんによって相当程度ゼロに近づけることができるはずです。全ての人に治療を強制する、というのはリスクを無しにするための対応としては、無茶にすぎるのではないでしょうか。

もう一つ。言いにくいことですが、障害者や難病の患者・家族の人たちはある種の「特権意識」を持っているのではないか、と感じることがあります。自分たちは社会の制度・ルールに対して拒否権を持っている、というような。そうした意識は、一般の人との対話や相互理解を図る上では邪魔になるように思えます。

尊厳死は、正直、それほど難易度の高い倫理問題ではありません。このことについてすら一般人の多数派から見て分からず屋でいると、いずれ「尊厳死を拒むのは構わないが、医療費を自己負担しろ」という意見がきっと出てくることと思います。

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