終末期医療の「コスト」

投稿者: | 2012-05-22

尊厳死の法制化が議論されていることもあって、終末期医療の話題がメディアにちょくちょく登場します。

そんな時、いつも思うのが「コストの話もしないと」ということです。お金だけが政策決定の材料ではないですが、お金のことを抜きにした議論は、不完全と言わざるをえません。

そんな折、産経にこんなコラムが掲載されました。

【土・日曜日に書く】編集委員・安本寿久 国民医療費から考える尊厳死 – MSN産経ニュース

尊厳死をめぐっては今年3月、超党派の国会議員でつくる「尊厳死法制化を考える議員連盟」が、終末期の患者が延命を望まない場合、措置を始めなくても医師の責任を問わないとする法案を初公開した。「延命措置を始めない」と限定したのは、医療現場から「責任を追及される可能性があるので、一度延命措置を始めれば、続けるしかない」という指摘が出たためだ。人工呼吸器の装着や人工栄養の補給を始めると、だれの意思でも止められない終末医療の実態を示した指摘でもある。

尊厳死は本来、人間らしい安らかな死を遂げるために、患者本人のための権利として提唱されたものだ。日本で同協会ができたのは昭和51年で、その主張には36年の歴史がある。本来の意味合いに、若い者に必要以上に面倒をかけたくないという気持ちを加えたのが真銅さんの選択である。

「終末医療をほどほどに、なんて誰も言えない。マスコミでも書けんやろ。でも、どこかで区切りをつけないと団塊世代が高齢になるほど、国民医療費は際限なく増える。だから、高齢者自身であるわしが言うとくんや」

その書きにくいことを、一人の高齢者の口を借りて書いたわけです。実際、こういう風に考えるお年寄りは少なくないはずです。でも、メディアにはなかなか登場しませんね。「人の命はお金には換えられない!」といった情緒的反発を招くからでしょう。

でも財政のこと、人口構造のことを考えれば、我らの未来にかなり過酷な現実が待ち構えていることは確かです。お金の制約や医療資源の制約から、ある程度の「見殺し」は起きざるを得ないでしょう。今からその現実を見据え、犠牲を最小限にすべく知恵をめぐらせることこそ、真摯な態度と考えます。

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