「中の人」の論理

投稿者: | 2013-01-28

アルジェリアでの人質事件、犠牲となった日本人10名の遺体がみな帰国しました。

事件そのものは一つの区切りを迎えたということになります。実態の解明や今後の対策などは、まだまだ時間が掛かるでしょうが。

さて事件そのものとは別に、この件の報道のあり方をめぐって、我が国のネット上では一悶着も二悶着もありました。要は、犠牲者の遺族は故人を匿名にすることを望んだのに、メディアが勝手に実名を公表してしまった、というのです。もともとネット民の多くにはマスメディア不信、マスメディア嫌悪のようなもの根強くありますので、それが一気に着火してきまった、という印象を持ちました。

そしてこの件に関してメディアの中の人やその立場に同情的な人が、やや牽強付会とも言える論理で実名報道を正当化したことで、ネット民の怒りはさらに高まった感があります。私も腹が立つやらあきれるやら、というところです。もともと自分たちの都合で報道しようとしているのに、公益性があるように言い繕おうとするから(少なくとも、メディア外部の人間にはそう見えます)、全く説得力がないんですよね。あと、メディアの受け手を小馬鹿にしているような感じがあるのも、悪印象です。

今回の論争なり対立は、アルジェリア事件という枠を超えて、「犯罪や事故の被害者を、遺族が同意しなくても実名で報じるべきなのか」という論点をはらんでいます。そしてそれ以上に、メディアの報道の公益性・社会的存在意義というものをも考えさせてくれることとなりました。

上記のような理屈にもならない理屈を言っていると「マスゴミなんか要らない」という風潮が高まるのもやむを得ないのではないでしょうか。私自身はそこまで過激ではありませんが、現在ある大手メディアが「賞味期限切れ」になりつつあるな、という感じはします。

要は、大きな組織や力のある業界にいると、自らの常識が世界の常識であり正義なのだと思いがちなんですよね。そしてそれを自覚しないどころか、世間の常識、一般人の常識をバカにして掛かる。こうなると、かなり重症と言わざるを得ません。組織なり業界が壊滅しないと、目ざめないのではないでしょうか。

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