ワークライフバランスの先にあるもの

投稿者: | 2008-10-10

「ワークライフバランス」って言葉、大分定着してきましたね。言葉を知っている人、その理念に賛同する人は、かなりの割合に上るんじゃないでしょうか。実現度はまだまだでしょうが。

さて私は、気の早いことにその先を考えています。ワークとライフのバランスが実現したとして、次に問われるべきはライフの内実ではないか、と。

つまりこういうことです。現時点では、ライフ即ち私生活といった感がありますが、ゆくゆくは広義の「まちづくり」への関与といったものが、ライフの中で相当の比重を占めて来るんじゃないか。またそうなるべきではないか、と。

その暁には、人生の構成は次のようなイメージとなります。専門的な知識や技能を活かし、顧客ひいては社会に価値をもたらすことによって対価としての報酬を得る「仕事」。知恵や労力、場合によってはお金を差し出すことで、我が街を良くするために働く「公共的活動」。そして、エネルギーや知識を蓄えたり私的な満足を満たす「私生活」。この3つのバランスを取り、あわよくば相乗効果を生み出すことが、万人のテーマとなるでしょう。

なぜ仕事と私生活のほかに「公共的活動」が必要なのか。

仕事においてプロとしてやっていくには、特定の分野に特化せざるを得ません。その特定分野なるものは、知識の進歩とともに狭まって行きます。分業の進んだ社会では、仕事の狭小さと人間の潜在的可能性との間にある非対称性が、拡大せざるをえないんですね。そして仕事で活かされない潜在可能性なるものはおいおい退化・消滅するので、プロとしての看板を保つ限りは、人として歪なものにどうしてもなって行く。でもそれは、長い目で見れば専門分野での成長限界をも押し下げるんじゃないでしょうか。

だからこそ、仕事で活かされない社会的動物としての人間の能力を、公共的活動の中で発揮していくべきなんです。公共的活動で得られる満足感や喜びは、仕事のそれとはまた違った味がありますし。

以前ワークライフバランスに関連して、「仕事ばかりで私生活の貧しい人生は侘びしい。いくら私生活が充実していても、仕事で見るべき成果を上げないのでは、生きる甲斐がない。」と述べました。将来はそれに、「公共的活動に関わっていなければ、人生があまりに狭く小さい」というのも付け加わるんじゃないでしょうか。これは別にきれいごとではなく、必然的な方向だと思います。どうせそのことに気付くなら、早い方がいいですよー。

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