貧困は、誰の責任?

投稿者: | 2014-02-03

こんな記事を読みました。

「貧困」を見つめるまなざし ~我々は何を貧しいとみなしているか:その弐(中田大悟) – 個人 – Yahoo!ニュース

日本国憲法が占領下で定められたものだからなのか、生存権さえ天から降ってきたかのように思われているからなのか、貧困というものについて、それを社会現象と捉えるのではなく、個人の資質の問題と捉える、英国の貧困調査以前の議論が非常に多いように思えます。貧しい個々人の現状と向き合い、適切な支援を送るケースワークという援助手法は大事なのですが、貧しいことの責任を個人になすりつけるだけの議論は、社会を前進させるものではないということは、そろそろ日本でも認識されてよいのではないでしょうか。

貧困の実態をきちんと調査・把握した上で、社会として対策を取っていくべき、という提案には異論ありません。

いくつかの社会的状況が貧困に陥るリスクを高める、しかも往々にしてそうしたリスクは互いが互いを呼び合うような形で複合化していくという面はありそうです。「貧しいのは100%本人のせい」などと考える人は、いないでしょう。でも、「貧しさは100%社会のせい」という風な立場も、同様に危ういものがあります。不利な状況をはね返そうとする意欲に水を挿すことになりかねないからです。

そもそもグローバル化というのは、南北間あるいは国と国の間にあった経済格差が、各国内の格差に置き換わっていく過程です。それはちょうど、異なった水質の水が混ざり合い、全体として温度層をつくりだすようなものです。グローバル化を止めるというなら別ですが、それは無理な話でしょう。鎖国よろしく、日本だけグローバル化から背を向けますか?それだと、日本全体が相対的に貧しくなるまでです。

メディアは時に貧困家庭や貧しい個人の悲惨な生活に焦点を当て、「行政が対策を!」などと訴えます。でもその対策なるものは、簡単な話ではありません。長い目で見て問題の解決や縮小につながるのかどうか。前段のような「構造」への厳しい認識がないと、結局税金の無駄遣いに終わるしかないように思えます。

ともあれ、貧困や格差の問題は他人事ではなく、21世紀を生きる我々にとって逃げられない社会問題であるのは確かです。まずは、冷静に現状を把握しないと。その意味で、元記事の問題提起には感謝です。

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