無宗教葬と家族葬と

投稿者: | 2008-10-31

「オフィスシオン 社長日記」ブログから。

無宗教の嵐<家族葬の嵐

しかし、無宗教の葬儀は
掠める事はあっても
上陸できませんでした。

しかし、その代わりに
葬儀の規模の縮小化の嵐が
日本全国で吹き荒れています。

この家族葬の嵐は
葬儀社にとっては
台風のようなものでは済まされません。

マクロな視点で見ると、家族葬も無宗教葬も、大きな流れの中の過渡的形態なんじゃないでしょうか。大きな流れとは、葬儀の民主化とでもいいましょうか。葬儀の主導権が、葬儀屋や僧侶といったいわば「プロ」の手から、遺された家族へと移っていくという。

故人の遺志を手がかりに、家族や親しい知人が、葬儀から納骨、法要まで、死に伴う様々なプロセスを営んでゆく。葬儀業者はプロとして最低限の手助けをする(もちろん、料金も最低限)。一方、寺については、生前から日常的な付き合いがないのであれば、全くお呼びでないでしょう。

しかし、今、私たちが家族葬専門で葬儀をしていても
日本人の心のどこかには
宗教の必要性が十分に残っています。

死者に対しての尊厳や思いは
もしかすると家族葬の方が多いのではないかと思う事も
しょうっちゅうあります。

かえって、お寺を呼んで今までどおりの葬儀を行なうことの方が
死者に対しては粗末だったりしているのです。

それはあるかもしれませんね。意識的な選択を行うということは、意識の高さの表れとも言えます。

死や葬儀と宗教(日本で言えば、とりわけ仏教)との関わり。人口の高齢化とともに、今後ますますクローズアップされるテーマになりそうです。

一人称の死、つまり自分の死に対峙することにおいては、信仰がプラスになることははっきりしています。では二人称の死に関して、宗教は何ができるのか。少なくとも、葬式に来て経を読んだり法話なるスピーチをするだけが能ではないでしょう。仏教界がぼやぼやしていると、「千の風」とか「スピリチュアル」なんかに、庶民の心を持って行かれますよ。そうした事態を、私は決して好ましいこととは思いません。

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