ユーゴスラビアの格言だそうです。トルストイの名言、「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。」(アンナ・カレーニナ)を彷彿とさせますね。
確かに、生まれるといったら、母体から分娩されるという一通りかしかありません。一方死ぬ方は、死因をとっても死ぬまでの過程をとっても、千差万別です。生体にとっての死が意味するところはすべて同じであっても、そこに至るまでは決して一様ではありえません。よく「自分らしい死」ということを言う人がいますが、死は自ずと個別的なものにならざるをえないんですね。
この言葉、さらにもう少し広い意味でのとらえ方もできそうです。つまり、人が生まれたときは大きな差はないけれども、死に至るまでの過程で多様性、あるいは差が生じてくる、と。生きるということは、各自がそれぞれの歩みでその「差」を刻んでいくことでもある、と言えそうです。
高齢化社会、それは死の時点での多様性がますます拡大・拡散していく社会でもあります。今後我々は、いろんな事件や事象を通じてそのことを痛感させられることが増えてくるでしょう。その「差」を厭う人は、これからの世の中、非常に生きづらくなるでしょうね。