不老不死という「危険思想」

投稿者: | 2006-02-23

不老不死は人類にとって福音でしょうか。それとも、新たなる地獄でしょうか。さしあたり実現の可能性は薄いにしても、思考のトレーニングには格好の素材と思います。


■不老不死を求める人々
ここ数年、「アンチ・エイジング」が美容業界でのキーワードになっています。不死はともかく、不老については、ある程度欲求を満たすことが可能になり始めているのです。いわゆる「脳トレ」ブームも、不老の追求の流れの中にあると、私は見ています。

新聞のルポルタージュ記事の中で、不老不死を追求するあるアメリカ人が、こんな感じのことを言っていました。「冷蔵庫にしろエアコンにしろ文明の恩恵。それを寿命の伸長だけに使わないのは矛盾している。」

確かに、技術的に可能ならそれを使わない手はない、というのは理屈としてはわかります。ただ、やみくもに若さを保ち、寿命を伸張しようというのは、他の技術にはない弊害を、人間社会にもたらすような気がしてなりません。

■考えられる弊害
まず、不老不死が強く望まれれば、生への執着は今以上に強まり、結局それはエゴイズムの肥大化に拍車を掛けることになりそうです。自分が長生きできれば、周りにどんな迷惑をかけてもいい、というような。

また、古い世代がいつまでも社会に残り続けていることは、次の新しい世代にとって目の上のたんこぶとなります。一般的に言って、世代の交代が行われない社会だと沈滞は免れないのではないでしょうか。

そして何より、死への忌避感が強まることが心配です。そのことは生の深みを損ねるものとならないでしょうか。死すべきものとしての人間、というのはあらゆる文化や規範の前提としてあります。それが崩れてしまったら、あるいは控えめに言って揺らいでしまったら、我々の文化は破滅してしまわないとも限りません。

だからこそ言いたいのです。不老不死は現代における危険思想なのだ、と。

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