「どうせ気が変わるから」という言い訳

投稿者: | 2014-12-04

生前準備に対してよく浴びせられる批判・異論の一つです。

いくら周到に準備していたって、「いざ」という時には気が変わるかもしれないから、準備しても仕方ない。だから、自分はやらない。というわけです。主に終末期医療に関する意思表示について言われますね。

これに対する私からの反論は、二つあります。

一つは、仮に気が変わるとしても、前もって心構えを持っておけば修正や調整で済む。そこで生じるかもしれない不都合は、何にもしておかないことの不都合を上回るんじゃないですか、というものです。

本人が何も意思表示しておかないと、家族が意思決定することになります。家族は自分のことをすべてわかっているという自信があるかもしれませんが、往々にしてあとで「あれで良かったんだろうか」という気持ちに苛まれるものです。一見家族を信頼しているようでいて、単に負担を押しつけているだけにすぎないのではありませんか。

もう一つは、準備するプロセスは見直しや気づき、学びをもたらしてくれるということです。そんなことはあまりないでしょうが、仮に「いざ」というときに180度気持ちが変わったとしても、そのプロセス自体に意味を見いだすことができるのではないでしょうか。より良く生きる、より深く生きるという点で。そこに「意味なんて全くない」というなら、その人は生きていること自体が無意味なんじゃないでしょうか。

二つほど述べました。これでも納得できないという人は、私から見ると「やらない言い訳」を探しているとしか思えません。最終的には「どうぞご自由に」というほかないですね。

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