私はいつも、終末期の患者様には、限りある最期の時間だからこそ、動けて話せる元気な時期に自分の思い残す事がないよう、その人の望む最良の時間を過ごして頂きたいと思う。しかし、現場ではご本人に予後を知らせぬようご家族が望むため、患者様本人は、まだ治療する事に執着し「がんが消えてないのに退院できない。」と仰る。ご本人に、予後が短い事を告知する事は残酷なのかもしれないが、「死」から逃避するよりも、限り有る時間だからこそ大切に過ごそうとご本人に気づいて頂く方がどんなに充実した最期であるかと思う。 予後の告知に対してのご家族の反応は個人差が有る。ご本人とご家族の「死生観」が告知に影響を与えていると考える。こういう割り切れなさというか、「それでいいのか?」という思いを持ちながら、患者や遺族と向き合っておられる医師は、少なくないようです。とりわけ老人医療・終末期医療に携わる医師は。少し前に観たテレビでも、別の緩和ケア医の方がほぼ同趣旨のことを言っておられました。 私はここに、戦後日本人の生命尊重主義というゆがみを見る思いがします。生きることはそれだけで尊い、あるいは人命は地球より重たい、というのは、やはり不健全な考えでしょう。人間が不死でない以上、必ずどこかの時点で現実の前に破れ去る観念だからです。 セネカの言う「人生は物語のようなものだ。重要なのはどんなに長いかということではなく、どんなに良いかということだ」こそが、健全な考え方というものでしょう。中味や質を問わず、ただ生き延びることを良しとする思想は、結局、生の質をはてしなく低下させるものだと思います。 申し訳ないですが、生命尊重主義的な考え方は、死生観・人生観と呼ぶに値しませんね。]]>
行政書士などいわば同業の方のブログは、本から転記したような教科書的な法律知識を書いたものか、本業に関係ない私生活を書いたものが大半です。仕事の現場のリアルな出来事を伝えるものや、法律の解釈や適用について高度な思索を展開したものなどには、まずお目に掛かりません。前者については、「守秘義務」という制約があるのは事実ですが。
もう一つ、私が関心を持つのは終末期医療です。医師や看護師のブログも、割と目にします。中には、生と死について、あるいは医療のあり方について、深い思索を展開しておられるケースもありますが、専門用語が頻出して読みにくかったり、特定の患者さんへの「思い」を独り言のように呟いているものの方が、割合としては多いです。やはり、読み物としては面白くない。
その点葬儀屋さんのブログは、その人が仕事を通じて悩んだり喜んでいる様が鮮明に伝わるものが多く、読んでいて楽しいんですね。教えられたり、考えさせられることも多いです。
ということで、気分としては葬儀業界の敵、な私ですが、日々葬儀屋さんのブログは楽しませていただいていること、ここにカミング・アウトします。
]]>中国では老人が亡くなると、図書館が一つなくなったと言われていたそうです。それだけ、人生を重ねてきた人には、経験や知識が詰まっている。そう考えられていたのです。
この年になってみて、それがよく理解できるようになりました。頭は良くありませんが、間違いなく経験や知識は増えました。しかも、そのことをひけらかす、というより冷静に使えるようになったと感じています。
いろんな状況において、どう対処すればいいのか、それがうまくなったのも年齢を重ねたからに違いありません。
ですから、この4分の1位の知識と経験を使わないのはもったいない。若い人に一から教えるより手っ取り早いし、教えるにしてもツボを心得ています。
まさに日本の財産。どうして、もっと活用しようと思わないのでしょうか。爺さん・婆さんは頭が固い、うるさい、動かない、金がかかる、という固定観念に陥っているのかもしれません。
そこで、私が考える日本のアイデア。「還暦を迎えても楽しく働ける国」。どうですか?60歳になって不安なく働ける、活躍できる。つまり、いつまでもやろうと思えばお役に立つことができる国。
このビジョンに反対する人は、あまりいないんじゃないでしょうか。何より、日本人自身の多くが「いくつになっても働いていたい」と考えているのですから、無理がない。
もちろん「還暦を迎えても働かねばならない国」では悲惨です。誰もが強要されるようなものではありません。資産が豊富な人や、趣味などやりたいことのある人、健康でない人は、早く引退するのもいいでしょう。あくまで、本人が望めば「還暦を迎えても楽しく働ける国」です。
本格的な生涯現役社会を実現できれば、日本は他の国のお手本になれるでしょう。必ずしも全ての国がうらやましがるとは思えませんが。
]]>「経済ドキュメンタリードラマ」というこの番組、初めて見たのですが、題材によってはかなり面白く観られそうですね。今後はチェック対象に含めたいと思います。
さて番組のドラマでは、思い切った価格設定(というか価格改定)がカギとして描かれていました。その他、この方の熱心な営業活動、人的ネットワーク、そして何より、奥さんの後押しが印象的でした。
驚いたのは、スタジオトークの中で、仏教界代表の僧侶の方が「葬式は教団の維持のためにある」と言い放ったことです。そんな感覚で、これから葬式仏教が生き残っていけると思っているのでしょうか。きっと、消費者たる檀家からは愛想を尽かされますよ。
さてドラマには大いに感動させてもらいましたが、一歩引いて考えれば、現状、この会社の取り組みは「改善」の範疇にあると言わざるを得ません。読経や戒名授与を「サービス」と考え合理的かつ明瞭な価格で提供するのは、確かに素晴らしいことです。でも仏教の根本精神にもとるという点では、既存の葬式仏教と五十歩百歩じゃないでしょうか。
とはいえ、社長の林氏は熱い心と高い理想をお持ちの方のようです。しかもまだ43歳。僧侶派遣を突破口にして、社会と仏教の新たな関わりを打ち立てられることを期待したいと思います。
]]>会館という「器」を持つ業者は、少し前まではそれが強みだったはずですが、どうもこれからは、それが弱み、もっと言えば桎梏になりそうな雲行きです。
もちろん葬儀場のニーズがゼロになることは考えられないので、全てがつぶれることはないでしょうが、かなりの淘汰が起こるのは必至でしょう。
さてこうしたことは、何も葬儀業界に限ったことではないと思います。時代の変化がどんどん速くなっているので、固定的な体制や設備を持つ者は、変化への適応が難しい。身軽な者勝ちの世の中が、到来しつつあるようです。
]]>著者の長年の思索と実践の成果が詰まった本だな、という印象を受けました。ここにも、「志」を持って生きている人がいる、とも。
さて、著者の持論というか夢の一つが、「2020年に寄付10兆円市場を実現する」ということです。その成否はさておき、意欲的な目標だと思います。もちろん、氏も言うように、その際には遺言による寄付も、大きな比重を占めることとなるでしょう。
さて現在私は、寄付について次のようになるといいな、と考えています。
遺言の中には、家族など身近な人への私的なメッセージも含まれます。それとは別に、自分はどんな社会を望むのか、何を大切と考えるかを、寄付を通じて表す、というわけです。
しかもそれは、死に際しての一過性のものではなく、一生を通じて支援してきたもの、携わってきたものと、密接に関わっていなければ・・・。
こうしたことが当たり前になったとき、寄付文化が根付いた、と言えるのでしょう。
]]>これは私の持論なわけですが、再確認したのは、以下の記事を読んで。
言ってみれば、顧客を騙すようなことを言って、解約を食い止めようとしたわけです。銀行業界が「顧客本位」から程遠いというのはいわば常識ですが、これはひどい。
これまで企業の儲け主義に対しては、消費者の側もある程度「仕方がない」と諦めていたところがあります。けれど、選択肢が多い時代にあって、どうして顧客の側が我慢しなければならないのでしょうか。
顧客本位というのは、それを一心に追求したとしても満足に達成できるとは限らないような困難なテーマです。ましてやそれを蔑ろにするような企業には、はっきり言って存在価値はありません。
この点に関しては、もっともっと我々は厳格であるべきです。いくら名の通った企業であろうと、上記記事のようなふざけた真似は、絶対に許さない!と。
]]>クラウドソーシングが一般化した社会では、個人の生き様や働き方も大きく変わるでしょう。
多元性
従来、人は職場や家庭に一元的に所属し、それが生活の大部分を占めていました。今後は、関心や嗜好に応じて、多元的な組織や集団に関与するようになることでしょう。しかもそれが、相互に一貫しているとは限らず、それぞれの場において多様な側面を発揮することとなるでしょう。
収入より満足
こうした状況下では、人は収入を極大化することより、貢献ひいてはおのれの満足を極大化することを優先して動くようになります。対価が支払われないと人は動かない、というのは20世紀的な古い人間観ということになります。
ボーダーを越える
分野の境界、組織の境界を越えて、知恵や貢献が注がれるようになります。ここでは、ウチとソトを峻別するような閉じた姿勢では、自ずと生産性も低下するでしょう。
感覚的な言い方をすれば、しなやかな生き方が求められるようになるんだと思います。その方が、世のため人のため働ける余地が大きく、本人の満足度も高い。こうした個人が切磋琢磨しあう社会は、とてもダイナミックで、どんどん成長していく社会となるでしょう。ちょっと楽観過ぎますかね。
]]>そんな中、介護前離婚という言葉を、下の記事で知りました。
「夫の親介護なら離婚」 : 最前線 : 共生 : 医療と介護 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
確かに、きょうだいが1人とか2人しかいない者同士が結婚すれば、親の介護は物凄い負担となります。ましてや、愛していない夫の、その親の介護まで押しつけられるのはたまらん、と考える妻がいても不思議ではありません。
介護前離婚、これから増える可能性は高そうです。
ところで、この手の熟年離婚の話題になると、夫の側が全て悪い、という論調になるのは、どうも納得が行きません。妻の側にも、能動的に夫婦関係を創っていく責任の一端、というか半分はあるんじゃないでしょうか。
まずは、記事末尾の「夫への助言4か条」にもあるように、夫婦間のコミュニケーションを活性化させることが重要なんでしょうね。
]]>これは、自分の言論に責任を持つという意味合いと同時に、自分という存在をアピールしたいという思いが含まれています。
また、ネットは現実の忠実な写し絵であるべし、むしろ現実の活動を活性化させる触媒であるべしとも考えており、その信念を実践しているという面もあります。
「ネットの匿名性」と、「監視網になったSNS」 | WIRED VISION
そうしたメリットを考えると、ネットの世界も現実と同程度にしゃっちょこばったものになるのは、致し方ないと思います。もちろん、一部に匿名を許容する空間はあって構わないと思いますが。
あくまで、「原則実名、例外匿名」であるべきです。
]]>実際には、自信のなさがうきぼりになるだけに、軽蔑や哀れみの対象となる人たちですが。
「金を払うほうが当然偉い」と、思い込んでいるお客さん:日経ビジネスオンライン
いくら金を払っている客でも、お店・店員に対する敬意を失わない。それが、客の作法というものです。店員だって人間です。敬意を示さない客には100パーセント、あるいはそれ以上のサービスをするのは無理なんじゃないでしょうか。
さてこれは、会社と従業員、上司と部下の関係にも当てはまります。従業員や部下に適切な敬意を払わないのでは、十分な貢献を得ることはできないんじゃないでしょうか。
現代の我々は、前近代社会の身分制度について非人間的なように感じます。ですが、現代の客ー店員関係、上司ー部下関係も、後世から見ればきっと「封建的」に思えるでしょう。まだまだ人一人の持っている可能性や、その命の営みの尊さについて、多くの人は啓蒙以前という状態にあるからです。
]]>やたら中味が詰め込んであって、サラっと読み流せない文なのですが、後段に今の大学の「病状」が列挙してあるので、メモの意味で抜粋しておきます。
「改革」の掛け声は、私が大学にいた20年ほど前から響いていました。それにより現場は随分振り回され、むしろ本業がおろそかになりかねないほどだと聞きます。それなのに、改革の成果といえるものは乏しく、むしろ事態が悪化したり新たな問題が生じたケースも少なくない。
問題・課題を的確にとらえ、それに効果的に対処して着実に成果を上げる。言葉で言えばこれだけのことを、今の日本人はまともにできなくなっているのではないか。大学改革に限らず、そう感じることが最近少なくありません。
言ってみれば、一億総無能化です。これこそが、亡国の兆しなのかもしれません。
]]>いつ生まれるか、誰の子として生まれるかを選べない、というのはその際たるものでしょう。
私は自由主義者なので、選択の自由はどんどん広げるべきだと考えますが、そうやって自由が拡張していっても、人生に不条理は必ず残るものだ、ということはわきまえているつもりです。むしろそんなところに人生のおもしろさ、妙味を見出せるくらいでないと、真に人生を楽しむことはできないと思います。
さて、そんな不条理の中でも、私が気になるものは、採用試験の面接や、オーディション、コンテストなど、一方が他方を評価し、それが評価される側の人生を左右するものです。えてして、評価される側が評価する側の器を超えているというケースがあるからです。
「燕雀いずくんぞ・・・」という故事成語がありますが、スケールの小さい人間には、スケールの大きい人間の「すごさ」はわからないものです。これまで人類の歴史の中で、こうした小人による不採用、落選がどれだけ才能を埋もれさせてきたことかと思うと、涙すら出そうになります。
とはいえ、長い人生においては、その不採用や落選が当人にプラスになることもありますから、ますますもって人生は不条理です。
]]>誰しもそうでしょうが、かなり衝撃を受けました。ここ最近は音楽より奇行で話題になることの多かった彼ですが、20世紀を代表するポップ・スターであることは間違いありません。
今例えば「スリラー」や「BAD」のプロモーション・ビデオを観ても、類似の者を見慣れた今の我々には、それほどの感動はありません。でも彼がああうい作品を創ったおかげで、その後の「進歩」があったのは間違いありませんから、その功績たるや、売上枚数なんかだけ(それも十分記録的ですが)では語れませんね。
ではこれから、彼のPVをいくつか観て、追悼することにします。80年代の我々は、MTVなんかを録画して繰り返し観ていたものですが、今はネット上ですぐアクセスできます。その辺にも、時代の変化を痛感しますね。
]]>目線が内向きになるのを防ぐためにも、もっと海外の情報に接するべきなんじゃないでしょうか。
かく言う私は、新聞の国際面を比較的丁寧に読んでいるのと、週に一度「CBSドキュメント」を観る程度です。ずっと以前にはニューズウィーク日本版を購読していましたけど、やめました。それでも、平均的な日本人よりは、海外情報に触れている方だと思います。
理想を言えば、日頃から英文の新聞や雑誌を読み、たまには海外に出かけてこの目で現地の情勢を観察するのがいいんでしょうけど、今の自分には、敷居高すぎです(そもそも、海外経験がありません)。英語はある程度読めますが、やはり日本語能力とは段違いのレベルですし。
さて、こんなことを書いたのは、下記の記事に触発されて、です。
自動翻訳の技術はどんどん進歩すると思うので、こと情報の入手という点に関しては、ネットやBS/CS放送を通じて、ますます海外発の情報に接するのは容易になるでしょう。今どきの大人・若者にはあまり期待できませんが、せめて次の世代には、グローバルな視野と行動力を培ってほしいものです。
]]>★身近な人の死★ - 大東市会議員ーこざき勉 - 楽天ブログ(Blog)
実母の49日に追悼文集を編んだこと、お知り合いの「送る会」でみんなに追悼スピーチを求めたことが紹介されています。いずれも私の提案に含まれているもので、意を強くさせてもらいました。
追悼文集は形として残るので、追憶のツールとして使えるのがミソです。また追悼スピーチは、故人の新たな一面を発見できるというのがミソです。
従来型の葬儀がすたれると、一時的に混乱や過渡的現象が起こるでしょう。でも、こうしたことに無限の型があるとは思えません。いずれは新たな追悼文化が確立されるのではないでしょうか。
個人の一生を取っても、お別れを何度か経験するうち、スタイルのようなものが確立されてくると思います。よく言われる「その人らしさ」は、言ってみれば味付けといったところでしょう。もちろん、そのちょっとした違いが、記憶の上では重要だったりするものですが。
さてもう一つは、遺品から亡き夫を思い出し、対話しているかのような文。鑑賞するに値する、とても心に沁みる文です。
]]>くらいのものです。
業態としての百貨店は、時代遅れになりつつあるという印象です。
昭和の頃には、百貨店・デパートといえばいい立地にあり、高級で何でも揃っているという輝かしい印象がありましたね。まさに隔世の感、です。
時代の変化といえばそれまでですが、活気のある売り場・魅力的な商品があれば、どんな時代でもお客は買い物を楽しむはずです。百貨店業界にも、おごりや怠慢がなかったとは言えないでしょう。
これからは、高級路線を追求する、贈答品需要に応えるなど、得意分野に特化するしか生き残る策はないんじゃないでしょうか。売上の規模はさらに落ち込むでしょうが、百貨店そのものが消えるというということは、差し当たり考えられませんね。
]]>となりの芝生(水・9・TBS)7/1-
嫁姑モノで橋田壽賀子ドラマ、というのが強烈ですね。しかもリメイクだとか。もちろん前作は観ていませんが。個人的には、瀬戸朝香の出演も、惹かれる理由の一つです。
任侠ヘルパー(木・10・フジ)7/9-
あの草彅剛が早くもドラマに復帰ということで、話題作となりそうです。介護業界もヤクザ業界にも興味があるので、その点でも、断然観たいドラマです。
官僚たちの夏(日・9・TBS) 7/5-
ちょっと時代錯誤な感がなきにしもあらずですが、こういう硬派なドラマもハマれたら面白そうです。城山三郎の原作も、いずれ読んでみたいと思ってます。
他に、以下のアニメも一回目をチェックしてみるつもりです。
青い花 7/1-
http://www.aoihana.tv/
大正野球娘。 7/2-
http://www.tbs.co.jp/anime/taisho/
かなめも 7/5-
http://www.starchild.co.jp/special/kanamemo/
GA 芸術学科アートクラス 7/6-
http://mv.avex.jp/ga/
宙のまにまに 7/7-
http://www.mmv.co.jp/special/soramani/
離婚の危機を回避する方法<その1>~日本では新しいマリッジ・カウンセリング~ - 日経BP セカンドステージ
アメリカで確立されたノウハウが、日本の夫婦にそのまま通用するとは思えませんが、興味深い記事でした。
私は常々、人々が、もっと専門家の力を借りることによって生活の質を改善するようになればいいと考えています。結婚、夫婦生活もその対象です。専門家との対話によって夫婦のコミュニケーションが改善したり、お互いのことについて新たな気付きが得られるのなら、仮にいくばくか(たとえば数万円)の費用が掛かったとしても、安いものではないでしょうか。
ところで、少し前にはこんな話題もありました。
科学の名に値するかどうかは眉唾ですが、統計データに基づき、相性度や、互いに上手くやっていく上でのポイントを診断できるなら、こういうお相手紹介サービスにはぜひ加えてほしいものです。年収、身長、学歴などの属性データだけで判断するより、よほどましでしょうから。「婚活」を提唱した人たちの意図も、まさにそこにあったわけですし。
ちなみに以前私が勤めた結婚情報サービス会社でも、色を用いた深層心理テストを相手紹介に活用しているという触れ込みでした。ですが実態は、占い同然のものでした。
]]>まあそこまで行かないにしても、100歳を超えて生き続けることができれば、現代では十分長寿と言えるんじゃないでしょうか。ちなみに、去年の敬老の日にあたって発表された数字では、我が国には3万6千人ほど、100歳以上の方がいらっしゃるそうです。(ただし86%が女性なので、男性の人はずっと望みが薄いです。)
こうした長寿化は、医療の発達もさることながら、長寿の人が増えてきて、100歳まで生きることが以前ほど大層なことではなくなっているのも、大きいように思います。陸上である記録が破られると、ほぼ同時にいろんな選手がそのラインを突破するようになること、あるじゃないですか。あれと同じです。
今後は長寿を助ける科学がますます進歩して、人口のかなりの割合(たとえば2割3割)が、100歳を超えてなお生き続けるようになるんじゃないでしょうか。
102歳 世界回って講演 : 医療ルネサンス : 医療 : 医療と介護 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ズバ抜けて長生きされる方は、前向きで行動的な方が多いように思います。心のありようというのは、長寿を実現する上では、我々の想像以上に大きな比重を占めているのではないでしょうか。
長寿の科学、このブログでも関心を持ち続けていきたいと思います。
]]>Google Japan Blog: Google Chrome OS のご紹介
自らブラウザを出し、Androidも手がけていましたので、突拍子もないということはありませんが、「そう来るか」と、驚かされたのは確かです。
このニュースを聞いたほとんどの人が「Microsoftの支配は終わるのか」と考えたことでしょう。でも冷静に考えれば、それは当面、実現しそうにありません。検索はともかく、GmailやGoogle DocsといったGoogleのWebサービスは、ネットに詳しい人を除けばとても浸透しているとは言えず、大半の人は慣れたWindowsを使い続けるだろうからです。
期待できるとすれば、Googleの脅威にMicrosoftが反応して、OSの価格を下げたり、よりネットの利用に適したOSを開発してくれることではないでしょうか。
ブラウザ(つまりそれを使って利用するWebサービス)の存在感が高まるとともに、同じOSを使い続けることの必要性は低下するでしょう。Windowsだけでなく、LinuxでもMacOSでもいいのです。
ただ一方で、汎用のブラウザで全て済ませるというのも、非現実的な想定です。個々のWebサービスに特化したアプリケーションも、今以上に使われるようになってくるのではないでしょうか。現に私は、Twitter専用のクライアントや、2ちゃんねる専用のブラウザを使ってますし。その意味で、質と量、両方でのアプリケーションの充実ぶりは、今以上にOSの価値を決めるようになると見ます。
Chrome OSがWindowsを脅かす存在になるかどうかはわかりませんが、少なくとも私にとっては、Linuxと並ぶWindows以外の選択肢となることは確実です。MacOSは、端から論外ですので。
ちなみにGoogleがらみでは、以下の話題にもとても興味を惹かれました。ついでにリンクしておきます。
Google、Gmail/カレンダー/Docs/トークから"BETA"を外す | 経営 | マイコミジャーナル ケータイするGoogleって?(フラッシュサイト)
]]>眠れる「校訓」もっと活用を 文科省が推進 - MSN産経ニュース
教育においては、「その時は"ありがたみ"が分からなかったけど、のちのち自分の心に深く残った」ということが往々にしてあります。校訓も、そういうものでしょう。
記事にあるように校長が折に触れて校訓にまつわるスピーチをする、というのもいいですが、生徒自身が、校訓を定着させ、活かす活動に主体的に参加できると、より良いですね。そうした中から、新たな物語や伝説が生まれ、それが後の世代に語り継がれていくことでしょう。
そんな「生きた校訓」なら、愛校心を養い、生徒や同窓生の一体感を育むのにも、きっと役立つはずです。
その点では校歌というのも強力なツールですので、校歌に校訓が組み込んであれば、なおいいかもしれません。
ちなみに、我が母校(島根県立益田高等学校)のホームページを見てみたのですが、使命や目標は書かれていましたが、校訓の記載はありませんでした。もちろん、私の記憶にもありません。少し残念ですが。
]]>そんな私から見て、有用なブログ記事(個人の書くもので)とは、
あたりでしょうか。要は、実のある情報が含まれているかどうか、ということだと思います。
逆に、読みたくない、読んで損したと思うことが多いのは、
こういうのは、書き手の自己満足に終わっているケースが多いようです。読み手のことが、意識から抜け落ちちゃっているんですね。
個人的には、日本のブログ言説空間は、まだ「対話」に乏しいように思います。これは日本社会そのものがそうなので、致し方ないことなのかもしれません。でも我々がもっとブログ慣れしてくれば、ブログを通じて新たな協働が生まれたり、ブログ間での対話を通じて新たな共有認識を得たりすることが、日常的になるんじゃないか。そう期待しています。
その意味でも、下記の試みには、注目していますよ。
ハックルベリーに会いに行く - ブログはキャリア構築にとって必要なインフラとなるか?
]]>まずブログでは、そのクリエイターの方とお会いした時の顛末や裏話などを、ドキュメンタリーとして記事に書きます。ブログ読者の方々には、まずそれを読んで頂く。
その上で、そこで行ったインタビューについては、書籍の方に集約します。そこで聞き出した「創作論」を、本としてまとめていくのです。
そういうふうに、ブログと書籍の内容をきっちりと分け、ブログだけでも楽しめるし、本だけでも楽しめる、さらにはブログと本を両方読むと、より立体的に楽しめる……そういうコンテンツにできれば――と考えました。そうすれば、ブログに書くことの意味も大きいし、出版ビジネスとしても成立するのではないか――そう考えたのです。
麻生総裁に率いられる現在の自民党が、国民から見放されつつあるというのが、改めて浮き彫りになりましたね。麻生降ろしの成否など政局には不透明な部分もありますが、近々行われる総選挙で、民主党中心の政権が誕生するのは、ほぼ確実といっていいでしょう。
こうした情勢を見て「自民党は賞味期限切れだ」といったことを言う人がいます。でも実際は、国民は自民党と民主党を「政権を担いうる政党」として同列に見て、その時々の政治情勢によってどちらかに肩入れするようになった、というのが正確な認識でしょう。政権に就いたあとの民主党も、案外早く見放されるのではないかと思います。
ようやく日本にも、政権交代が普通に起こるような政治状況が訪れようとしているわけで、そのこと自体は、前進、進歩といっていいと思います。問題は、二大政党の政策がどちらもカスで、我々の選択が「どっちが、よりマシか」というものにならざるを得ないということです。またそれによって、国民世論がブレやすく、政権交代が頻繁に起こりそうなのも問題です。平均して3年に一度くらい行われる総選挙の度に政権が変わるようでは、安定したまともな政治ができるとは思えません。
今度の総選挙、麻生を政権から引きずり下ろしたいので自民党には絶対に入れませんが、民主党に入れるのも何だか癪。幸福実現党という選択肢を、真剣に考え始めている私です。
]]>全体的な評価としては、星4つ。傑作と賛美するほどではありませんが、まあ愉しめる映画でしょう。
映画は、脳腫瘍で若くして亡くなった夫が遺したメッセージを軸に展開されます。そのメッセージを通じて、妻は二人の過去を振り返ります。その過程を通じて、彼女は死の悲しみを乗りこえていく、というわけ。
主人公(ないしその家族・恋人)が亡くなるまでをメインに描く映画が多い中、開始数分で片方の主人公が亡くなるこの映画。異色と言っていいかもしれません。グリーフワークもの、とでも言うんでしょうか。亡くなった夫が現れるところなどは、「ゴースト ~ニューヨークの幻~」を思い出してしまいましたよ。
映画では、メッセージが複数あってそれが順を追って届けられたこと、妻が読む状況などがちゃんと計算されていたこと、そしてメッセージの届け人に意外な人物が選ばれていたことなどが、物語のカギとして、美しく描かれていました。ただこれをリアルにやると、いろんなところでボロが出て、かえって白けることになるので、おすすめはできません。素直な気持ちを、シンプルな言葉で伝えるのが、結局ベストなんじゃないでしょうか。やるとしても、せいぜい死の直後、1年後、3年後に分けたメッセージを準備するとか。
そしてもう一つ。「愛してる」にしろ「ありがとう」にしろ、生前からちゃんと口に出して伝えておくことが、何よりです。
]]>世の中には時給1,000円未満の賃労働は存在してはならぬ、と言っているわけで、こんなのは論外の提案です。もっと言えば、最低賃金はいくらが妥当かなんてのは考えても仕方がないことであって、最低賃金なる規定は廃止するのが正しいです。
世の中には無償ボランティアというのがあるわけですが、時給200円とか300円の賃労働があってもいいと思います。自尊心が満たされるとか、純粋に楽しいとか、何かを学べるとか、人脈ができるとか、人がこんな低賃金労働に甘んじることのできる理由はいくらでもあります。問うべきは、社会に十分多様で豊富な雇用があるかどうか。最低賃金の引き上げは、誰がどう考えても雇用を減らします。いわば、逆噴射なんですね。
私などはむしろ、同一の職務なら給与が年々切り下がっていく「逆年功賃金」を導入するべきだと思います。仕事において進歩がなければ、支払われる報酬は減らされるということです。消費者として価格にシビアなんですから、働く側としてはそれを受け入れざるをえないんじゃないでしょうか。
さて、賃金がらみでは最近「給付付き所得控除」(またの名を「負の所得税」と言います)が、にわかに注目されてきました。ベーシック・インカムは問題多すぎと考える私ですが、負の所得税は真剣に検討してみてもいいかな、と思うようになりました。
ともあれ、ある程度見識のある人なら絶対に賛成しないようなお馬鹿な政策を次々出してくるような政党が、これから政権を担おうとしているわけです。日本の政策論議のレベルの低さは、もう絶望的というしかありませんね。
]]>若いうちは一人暮らしには自由というメリットがありますが、高齢になり生活力が衰えてくると、共同住宅が有力な選択肢となります。官民の老人ホームには一長一短ありますし、それに必ずしも入居者にとって快適なものじゃありませんから。
番組ゲストである加藤仁氏のコメントが印象深かったので、要旨を書きとめておきます。
最後に紹介された所は、とても示唆に富む事例でした。サイトの紹介を引用すれば「地元の人達から出資を募り地域ぐるみで運営を行うハウス」。地域住民に出資を募ったのを始め、運営するNPOが地域の高齢者向けの弁当宅配サービスを手がけていたり、住宅に地域の高齢者が出入りしたりできるというものでした。
高齢者の住まいは「問題」として語られることが多いのですが、むしろ様々な活動が展開される可能性に満ちた「場」なのではないか。番組を観て、強く感じました。看取りはその最たるものですが。
ところで紹介事例は神奈川県のものがほとんどでした。神奈川県って、こうしたことに関して先進県なんでしょうか。それとも、単に取材の都合?
]]>無論間違ってはいないのですが、どうやらこれから、このイメージが実態以上に浸透しそうな悪い予感がします。それが結果的に、人口減少以上に国内経済の縮小に拍車を掛けるのではないか、と。
確かに若者や子供向けのビジネスでは、少子化の影響は大きく、国内市場の急速な縮小は不可避です。ただ、それ以外の大人向けビジネスや、企業向けビジネスにおいては、あまり騒ぐほど国内市場が急速に縮小するとは限りません。「これから伸びるのは、高齢者向けのビジネスだけ」などというのは、暴論のたぐいでしょう。
それに、上では「不可避」と書きましたが、若者や子供向けのビジネスにしたって、全体としては消費額が縮小する可能性は高いですが、個々の商品やサービスが伸びる余地がないわけではありません。いや、いわゆる6ポケットのパワーで、子供の減少ほど消費額が減らない可能性だってあります。
「もう国内市場では成長は見込めない」なんていうのは、随分軽薄な決めつけであることは明らかです。ただ恐ろしいのは、日本人の多くがそう考えるようになると、結果としてそれが現実化してしまうこと。
よく言うことですが、日本人が将来を悲観し、それがさらなる少子化につながるという悪循環が回り始めると、本当の意味で「日本オワタ」になるでしょうね。
]]>辞書によると、
後進の者は努力しだいでどれほどの力量を身につけるかわからないので、おそれなければならない。
だそうです。
最近、自分より年の若い人が社会的に活躍していたり、鋭い言論を展開しているのを見るにつけ、この言葉が頭に浮かぶ機会が増えました。まぁ、若いと言っても30代であるケースがほとんどで、同年代と言えなくもないのですが。
自分が50歳60歳になって30歳の才人を見たとすると、これとは違った思いにとらわれるのでしょうか。
さてこの言葉について、私は「のびしろ」の問題という気がします。つまり、自分より若い者は成長の余地が大きいため、今の時点で対等、あるいは抜かされているようでは、追いつくのは困難、場合によっては絶望的ということです。
もちろん、人の進歩は単純なモノ、簡単なモノではありませんが、少なくともこの言葉でもって自分のおごりを戒め、せめてもの進歩への励ましとする、ということは大いに意味があるように思います。
余談ですが、各地で30代の若者市長が誕生していますね。政治家・行政のトップはある程度社会経験がないとまともな仕事はできないと思うので、こうした流行は一過性に終わるものと見ています。
]]>「**といういう言葉は、こういう時に使うべきではないか」
「**な時に、**という言葉を使うのはおかしい」
という風に。
言葉を厳密に使おうとすることは、思考についても厳密であろうとすることです。従って、疑義に論理的根拠があれば、その言説には聞くべき価値があります。
ただ、中には単に好みの問題というものも少なくありません。また、その言葉が広く世間に定着しているのであれば、些細な誤用や拡大利用などは、大目に見てあげても良いのでは、ということも少なくありません。
ことさらに言葉遣いにこだわる人は、考えの了見が狭く、また大勢順応をよしとしないひねくれ者、つまりはチームプレーのできない非協調的人間であることが多いように感じます。言葉をいくら厳密に使っても、結局、ダイナミックな思考を完璧に表現することはできないのですから、ほどほどのところで妥協するのも、大人というものではないでしょうか。
]]>私が考えていること、これから行おうとしていることに、とても近いものです。知って猛烈に好奇心をかきたてられたと同時に、今までこれを知らなかったということに、忸怩たる思いも持ちました。
情報収集のあり方に問題があったと言わざるを得ません。新しい情報を含んでいそうな本を積極的に探すこと。Webにおいても、自分から検索エンジンを駆使して能動的に新情報を発掘すること。類似の関心を持つ人と知のコミュニティを形成すること。英文の情報にも目配りすること。こういったことが、今後の課題と言えそうです。
さて、デイグニティ・セラピーについては、下記のページに詳しいです。
「ディグニティ」とは、尊厳という意味です。つまり、本療法は、終末期の患者さんの尊厳を維持することを目的とする精神療法的アプローチのひとつということになります。
ディグニティ・セラピーは、カナダのウィニペグ市にあるマニトバ大学精神科教授チョチノフ博士によって考案されました。がんの末期にある患者さんたちに、これまでの人生を振り返り、自分にとって最も大切になったことをあきらかにしたり、周りの人々に一番憶えておいてほしいものについて話す機会を提供するものです。
実際には、患者さんは8つの質問(#0、資料1)を手渡され、2、3日かけて答えをイメージアップします。そして、質問紙に沿って、面接者を相手に、愛する家族や友人に言い残しておきたいことを語ります。それはオーディオ録音され、その逐語録を基に、面接者が文書を作成します。それは後日、ご本人の前で読み上げられ、内容確認して頂いた上、郵送ないし直接に手渡しされることになっています。1週間ほどで完成します。
で、その質問(9つあります)が下記。
内容については、別途詳しく見ていきます。今日は、とりあえず紹介のみにて。 ]]>
- あなたの人生において、特に、あなたが一番憶えていること、最も大切だと考えていることは、どんなことでしょう?
あなたが一番生き生きしていたと思うのは、いつ頃ですか?- あなた自身について家族に知っておいてほしいこととか、家族に憶えておいてほしいことが、何か特別にありますか?
- (家族としての役割、職業上の役割、そして地域での役割などで)あなたが人生において果たした役割のうち最も大切なものは、何でしょう? なぜそれはあなたにとって重要なのでしょう、そして、その役割において、あなたは何を成し遂げたのだと思いますか?
- あなたにとって最も重要な達成は、何でしょう? 何に一番誇りを感じていますか?
- あなたが愛する人たちに言っておかなければならないと未だに感じていることとか、もう一度言っておきたいことが、ありますか?
- 愛する人たちに対するあなたの希望や夢は、どんなことでしょう?
- あなたが人生から学んだことで、他の人たちに伝えておきたいことは、どんなことですか?
(息子、娘、夫/妻、両親などに)残しておきたいアドバイスないし導きの言葉は、どんなものでしょう?- 将来、家族の役に立つように、残しておきたい言葉ないし指示などはありますか?
- この永久記録を作るにあたって、含めておきたいものが他にありますか?
身内がお亡くなりになって自分が喪主なのですが
葬儀を出す事がめんどくさくてしょうがない・・・みんな
こういう時はどうしてますか?・・・
「みんなこういう時はどうしてます」なんて聞かれても
そのような相談をうけた事がなかったので困りました
詳しく話を聞いてみると何年も会ってない、借金などの
迷惑をかけられた、親らしい事などしてもらってない、など
ダメな親は昔もいたでしょうが、昔なら世間体なんかを気にして、形だけはちゃんと整えたものでしょう。今は世間というものが、そんなタガになりえないので、「イヤなモノはイヤ」という感じになってきているように思います。
昔のあり方は偽善的だったかもしれませんが、形を整えることで、最低限、家族としての情のようなものは保たれてきたんだと思います。でも、そんなもの、なくていいんだ、と思うようになってしまいますと、非常にドライな家族関係になるんじゃないでしょうか。もし当人に子供がいたとして、親思いの子供ができるとは、とうてい考えられません。
葬儀を「ちゃんと」するかどうかは、私にとってはどうでもいいことです。けれど、家族の情愛を欠く人が増えるとしたら、ゆゆしきことと言わざるをえません。実際にはそんな人がすぐに多数派になることはないでしょうが、世代を経るにつれて着実に増えていく、ということはありそうなシナリオです。今の世の中も十分殺伐としている気がしますが、それどころではない「人でなし」の社会になってしまうかもしれませんよ。
]]>といっても、親族の誰かが死に直面しているとかではなく、あくまで職業上の関心ですが。
決まり文句のようですが、日本人から看取りの経験が失われ、あるいは経験が希薄化したために、死の現実が見えなくなってきました。その結果、生のあり方にも負の影響が出ているのだと思います。
在宅での看取りが唯一の解というわけではないでしょうが、それを中心として、いわば「看取りの復権」が起きつつあるようです。看取りをも組み込んだ形で家族関係や地域社会が再構築されようとしています。でなければ、これからの大量死社会、やっていけないでしょうから。
看取りの経験を通じて様々なことを学ぶ。看取りを一つの重要な契機として、生前も死後も他者と豊かな関係を築く。そして、自らの死に備えをする。こうしたことが、当たり前の世の中になるといい。そんなことを考えています。そして、周囲の者に自分の死を看取らせるのは、権利というよりむしろ義務だとも。
ということで、私の毎日のブログ検索キーワードに「看取り」が加わりました。代わって、「直葬」「家族葬」「終末期」「樹木葬」等を外しました。自分としては、もういいかな、という感じなので。
]]>私は幸運にも自宅にいられる時間帯だったので、ネットをしながら、PCにつないだワンセグでNHKの中継を観ました。
正直なところ、数日前までは日食にはあまり関心がありませんでした。それでも、ネットやテレビでこの話題がチラホラ出るにつれて、観たい気持ちが徐々に高揚、今日を迎えたというわけです。
こういう「天体ショー」って、あらかじめ日時がわかっているのが、メリットですね。あとは、天候に恵まれさえすれば。今回は、次のような悲劇(喜劇?)もありましたが・・・。
痛いニュース(ノ∀`):【皆既日食】 トカラ列島・悪石島は暴風雨に。竜巻も…避難呼びかけ、観測どころではなくなる
観ている最中は、Twitterのタイムラインを横目で見ながら、ときおり自分もつぶやきを投稿しておりました。ここ最近、フォロー対象が増えてタイムラインが混沌としているのが通常ですが、日食の時間帯だけはタイムラインが日食のことで埋め尽くされました。buzztterで盛んに日食のことが出てきたのも、大きいです。
自宅で一人パソコンに向かっていた自分ですが、何かみんなで一緒に見ているのに近い感動を覚えました。これも含めて、私にとっては忘れがたい日食体験となったことでした。オリンピックの時には2ちゃんねるのオリンピック板に行く私ですが、これからは、天体ショーといえばTwitter、という感じになりそうです。
次回皆既日食が見られるのは26年後だそうですが、早くも今から楽しみですね。その時は映像技術、Webのコミュニケーション技術もさらに進歩していて、今回以上の盛り上がりを見せるのは確実です。
]]>読み終わったら、感想などをまた書きます。このエントリでは、家系図について一般的な話を。
タイトルに書いたように、家系図づくりがブームになるといいと思っています。自分史もそうですが、家系図や家族史の編纂は、それ以上の意義があります。自分史はえてして自己満足に終わり勝ちですが、家族の歴史をまとめることは、知的な奥行きがあり、子孫への贈り物にもなるからです。
こういうものは後から手を着けるほど、史料が散逸したり、証言者が物故したりしてまとめづらくなるものです。少しでも早い世代からやっておくに越したことはないんじゃないでしょうか。折しも世はデジタル化の流れの中にありますので、データをデジタル化してしまえば、子々孫々までそれを伝えていくことも可能です。家系図づくりには今がチャンス、とも言えるんですね。
遺言コンサルタントたる私も、みなさんの引退後のお務めの一つとして、家系図づくりをどんどん勧めていきたいと考えています。
ただし、自身の業務とは考えていません。それなりの専門性は求められる仕事ですので、片手間にやるのは、依頼人にも、そしてそのご先祖にも失礼な気がするんです。「家系をつくりたいんだけど」というお話があれば、しかるべき専門家をご紹介するつもりです。
]]>遺言ニュースでの紹介は、こちら。
コクヨの公式ページは、こちら。
ガイド本は、少し安っぽい感じのイラストですね。親しみやすさはあるのですが・・・。
これが封筒。裏には、「開封厳禁」の文字も。
これが、遺言書用紙。コピーすると「COPY」って文字が浮き上がるコピー予防用紙です。この辺が、文具メーカーらしい心配りですね。
これが、保管用台紙。レストランのメニューを思い浮かべていただくと、よろしいかと。これはさっきのガイド本「虎の巻」とは違って、高級感があります。
私も時折「モノとしての遺言」ということに思いをはせるので、大いに参考になる商品です。いずれは、どこかの印刷会社や製紙メーカーに働きかけて、オリジナルの「遺言書キット」を創ろうかな、とも考えています。
]]>ただ、考えていることはいたって大真面目です。もし本当に、世界の人がみんな今の1.5倍賢くなったら、世の中はもっと建設的になるんじゃないでしょうか。「良くなる」と断言する勇気はありませんが。
賢くなるための具体的方法論として、次のようなことを考えてみました。
1.5倍というのに、大した根拠はありません。そもそも、根拠を持った数字を挙げることに意味はないのです。なぜなら、いったん世の中の平均的知性の水準が上がり始めれば、あるところから好循環が起き始めるだろうからです。
この世界で普通に暮らしていくだけでも、知性の鍛錬が進むでしょう。また子供たちは賢明な大人に教育されることで、ますます知が花開く可能性が広がる。
知性の高まりは必ずしも道徳性の進歩を約束しません。ただ、一定以上の知性の持ち主は、道徳的にも優れた人が多いという印象はあります。世の平均的知性を高めるというのは、社会目標たるに値するのではないでしょうか。
]]>失敗例とでも言うべきものを持ち出してきて、これはやめなさいとか、専門家に相談しなさいとたたみかけるものです。これに対しては、非常な反感を持ちます。
良くないのは、失敗例として挙げられるケースが、必ずそうなるといったものではなく、そうなる場合もあるといった程度のものが多いことです。ひどいのになると、非常なレア・ケースや実際には起こり得ないものを、脅しのネタとして使っているケースもあります。
そしてもう一つ、この商法が問題なのは、専門家たる自分の儲けにつながるような、いわば営業トークとしてなされるケースが多いことです。自分の利益のために現実をねじ曲げて伝えているわけで、これはたちが悪い。悪く言えば、詐欺師の領域に片足突っ込んでいる、と言わざるを得ません。誠実であるべき専門家として、これは言語道断です。
遺言の分野から脅しの商法をなくすべく、今後私は、こうしたものを見つけ次第、強く糾弾していく所存です。
]]>欧州:新政治勢力、我ら「海賊党」 ネットの世界、国の介入は認めない - 毎日jp(毎日新聞)
もちろん、ここでの海賊は、文字通りの海賊ではなく「海賊版」の海賊です。一言で言えば、著作物へのフリーアクセスを主張する集団、といったところでしょうか。諸手を挙げて賛成、というわけではありませんが、とても興味深い動きです。
我が国は小選挙区制が導入されて以来、二大政党化が着々と進みつつあります。私は90年代のいわゆる政治改革には賛成でした。けれども、現下の二大政党が、都市部のとりわけ若者にとって魅力的でないところを見ると、海賊党の存在はうらやましく思えます。
多様な価値観や関心が、政治にきちんと反映されるための仕組みを、考えなければいけませんね。その際、小選挙区制による二大政党制は、必ずしもベストではないのかも、と最近思うようになっています。何しろ、自民も民主も、積極的に選びたくなるような代物ではありませんから。
]]>消費低迷と節約志向が続くなか、結婚式については「ここ5~6年、挙式単価が上昇傾向にある」(結婚情報誌「ゼクシィ」首都圏版編集長の開大輔氏)。人口減少や晩婚化などを背景に婚姻件数は伸び悩んでいるが、結婚式を挙げる経済力があるカップルは、客をもてなすために「料理や式場にお金をかける」(同)傾向が強いようだ。
親も含めて、「見栄」が影響する分野だけに、世の趨勢とは逆に、むしろ金を掛ける傾向が強まっているとか。不思議なものです。
ただ思うのは、業界の努力や工夫もあって、お金を出したいと思わせるようなサービスや演出が次々と開発されていることも、大きいでしょう。で、結婚式については、友達や会社の同僚の式に出た経験(?)が、「自分の時は・・・」という形で活かされるのも、特徴的です。一種のモデルや基準になるんですね。
片や結婚式をしない・できない人たちがいる(それ以前に、経済的に結婚すらできない人たちも・・・)かと思えば、結婚式に惜しげもなくお金を遣う人たちもいる。確かに、この辺は「格差社会」の一面を表していると言えますね。
]]>今の日本には、「agree to agree」が必要なんじゃないかと思います。つまり、意見の相違は認め合いつつ、可能な一致点を地道に探る、合意を得るという点では協力する、という姿勢です。
こんなことを言うのは、対立する立場の者同士で不毛な論争が繰り広げられ、時間が空費される、というケースがあまりに多いからです。最近だと、臓器移植法や児童ポルノ禁止法の改正問題、古くからでは、死刑存廃論議や夫婦別姓問題、憲法9条改正問題もそうです。
個々人の意見や立場はいったんカッコに入れて、社会全体として可能な合意点を見出す。私から見ると、知的な面では容易なハードルに見えるんですけど、そんなものじゃないんですかね。感情なんかも絡んできたりして・・・。
時代の変化がのろい時代なら、「仕方ないかもね」で済まされたかもしれません。けれど時代のスピードが速くなると、対応しなければならない問題は、次々と押し寄せてきます。最良の合意でなくても、まず合意を得る。そして走りながら必要な手直しをして行く。それが、今の時代を生き抜くのに絶対必要な姿勢なんだと思います。
]]>クローズアップ2009:「成人は18歳」報告 変わる?大人の定義 - 毎日jp(毎日新聞)
私は、これには基本的に賛成です。18歳を過ぎれば、社会人になる者、大学などに進学する者がいますが、これらを未成年とするのは違和感があるからです。
反対論としては、今どきの18歳はまだまだ幼稚だ、というものがありそうです。ですが、それを言うなら、20歳でも同様じゃないでしょうか。結局、人がある程度大人になれるのは、社会に出て自分で稼ぐようになってから数年後でしょうから、「真の大人」と言えば、25歳くらいが適当、なんてことになりかねません。
成人年齢引き下げによって、確かに消費者被害など弊害は起こり得るでしょう。けれどそれらは、個別に対処して弊害を最小限に食い止めればいいこと。18歳になった者には成人としての権利と責任を与える、ただし若者の「過ち」には、社会は寛容。それこそが、われわれ大人社会が採るべき道ではないでしょうか。
ちなみに私自身の一番の関心は、喫煙や飲酒のことです。これについても、少なくとも高校を卒業する年の4月1日からは、晴れて合法にしていいのではないかと思います。守られない規則には、意味がないですからね。
]]>NHKの「コンカツ・リカツ」に抗議…大阪弁護士会 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
同弁護士会が問題にしたのは、離婚の相談場面。「離婚カリスマカウンセラー」の行政書士役が、夫から受け取る生活費についてアドバイスしたり、慰謝料の額に言及したりしていた。
抗議書では、行政書士について「職務権限は官公署に提出する書類などの作成業務で、その範囲で依頼人の相談に応じることができる」とし、「弁護士に認められた法律相談とは異なる」と指摘。ドラマの行政書士役については「法的手段や法律解釈に踏み込んだ見解を示し、行政書士の職務権限を逸脱している」と主張している。
このドラマ自体を観ていませんので、弁護士会の主張の当否について語る十分な資格はありません。以下は、一般論です。
弁護士は、法律系資格の中でも帝王的な地位にあります。弁護士にしか許されない業務がある一方、他の法律系資格に許される業務は弁護士にも許されるからです。弁護士になられた皆さんは相当の努力をし、また犠牲も払っていらっしゃるでしょうから、資格の権益を侵されることに敏感になるのは、わからなくもありません。
けれど、離婚相談というのはやはり特殊な業務でしょう。弁護士資格を持つ全ての先生方が対価を取ってプロとしての仕事ができるかどうかは大いに疑問で、むしろ経験を積んだ行政書士なんかが、いい仕事をするかもしれない。
法律の壁に守られて、自分たちのギルドの権益を固守しようとする。そんな姿勢は、今はまかり通るかもしれませんが、将来性がないことは明らかです。顧客の利便なんかどこ吹く風というわけで、ビジネスの世界では通用しないような「甘ったれ」と言わざるを得ません。
救いは、これが一地方の弁護士会による(といっても、大阪はマイナーな地方ではありませんが)抗議であること。大多数の弁護士先生は、こんな「アホ」じゃありませんよね?
]]>実は当初「yuigon」も調べてみたのですが、それはさすがに別のユーザーによって既に使われていました。「yuigon_info」は私が所有するドメイン「yuigon.info」に対応していますので、アイデンティティを統一する意味では、いい選択だったのではないかと思います。
ユーザー名の変更そのものは、ものの一分もあれば終わります。ただ面倒なのは、様々なWebサービス等でTwitterのIDを活用しているので、それらを全部アップデートしなければならなかったこと。具体的には、
等です。
ところでTwitterといえば、先月くらいから実感として、面白さやその利用価値が分かってきたような気がします。皆既日食の件と、勝間和代の参入で盛り上がってることが大きいかな。気付けば、フォローしている相手は50を超えていました。以前から「100人以上フォローして初めて面白さがわかる」なんて言われていましたけど、確かにそうかもしれませんね。
(こちらの画像は、私が常用するTwitterクライアント「Twit」です。)
]]>というのは、Twitterを舞台に以下のようなイベントが行われていたからです。
世界一斉Twitterゴミ拾い 公式Webサイト
※次回は9月1日(日本は8月29日・30日)だそうで、ページのタイトルは既に変わっています。
私も、自宅から最寄り駅(JR総武線幕張本郷駅)まで、ゴミを拾って歩きました。スーパーのレジ袋を手に、素手で! 本当は明け方にやるつもりだったのですが、諸般の事情でできず、夜になってからとあいなりました。
で、その直後のつぶやきが、以下。ケータイからの投稿です。
ここに書いたように、大半が吸い殻でした。吸い殻がなければ、ゴミ拾いの効率はどれだけアップすることか。今さらながら、平気でポイ捨てをする喫煙者には怒りを覚えます。見えている範囲でこれですから、おそらく溝の中には、もっとたくさんの吸い殻が捨てられていることでしょう。
さて、10分あまりではありましたが、感想など。
こうしたことを踏まえて、今月末のイベントにも再度参加します!また、月に一度では不十分なので、週に一度とか10日に一度とか、自分で日を決めてやってみようとも思っています。その際は、まず自宅周辺を徹底的にきれいにすることが肝要かも。
いずれは、ゴミ拾い仲間、なんてのも欲しいなぁ。
本記事を読んで興味を持たれた方、ぜひ次回のイベントに参加してみてください。Twitterやっていなければ、これを機に始めてみるのもいいかもしれません。
]]>主に3つのレベルで、コトを考えます。
私の言いたいことのミソは、これらが相互に独立してあるというのではなく、互いに絡み合っているということ。もっと言えば、それぞれが他の2つのレベルの前提になっているということです。
というわけで、上の3つのレベルを行ったり来たりしながら、論を展開していきます。また、適宜Web上の記事(主として、私がブックマークしたもの)にもリンクを張っていくつもりです。事柄の性質上、綺麗な体系として示すことはできませんが、継続して読んでいただければ、それなりに説得力を持つものと期待しています。
では、次回からは、まず、3つのレベルそれぞれについて、詳しく見ていきます。
]]>道具などで「これを使い始めたら、もう以前には戻れない」というのはよくありますが、ワイヤレスもそうかもしれません。特にマウスに関しては。
個人的には、ヘッドホンやイヤホンのたぐいがワイヤレスになれば、かなり便利な気がします。既にモノは発売されているようなので、いずれ試してみます。
思えば、マウス自体、ホイールが付いたり、光学式になったりと、随分進化を遂げているんですねー。
]]>いろんなところで、原爆による被害の悲惨さや、核兵器廃絶の誓いが語られています。
ただ思うんですけど、一般市民が大量に殺戮されたという点では他の大都市への空襲も同様です。広島や長崎を「特権視」するのは、おかしいんじゃないでしょうか。もっと言えば、「あの戦争」と言った時にいわゆる銃後にいた人の体験談ばかり語られがちなのも、バランスを失しています。戦争について知りたいなら、まずは実際に戦場に臨んだ人たちに話を聞くのが先でしょう。
総じて、戦争の現実を知りたいというよりは、特定のプロパガンダに都合のいい情報を集めようとするから、こういう不誠実なことになるんだと思います。戦争のことを当時の呼び名である大東亜戦争と呼ばないのも、その一例です。
さて今年は、オバマ大統領の登場もあって核廃絶への期待が高まっているようです。けれど、これは目標設定として不適切です。仮に先進国の我々が核を放棄したとしても、ならず者国家やテロ集団が核を持ったらどうなりますか?彼らを圧倒的に優位に立たせるだけでしょう。目指すべきは、核の放棄ではなく、核が使われない状態をできるだけ長く(できれば未来永劫に)保つこと、これでしょう。
自分の理念の美しさに酔ってしまい、現実をおろそかにする人ほど醜い者はありません。平和を破壊する平和主義者は、その際たるものです。
]]>「花嫁ブロガー」がブライダル業界を牛耳る!今どき結婚式がエンタメ化する理由 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン
ゼクシィによって、そしてさらにブログなどネット上の口コミメディアの隆盛によって、消費者へのパワーシフトが起きている、というのです。以前は、こんな感じだったのに。
再婚を繰り返す芸能人は別として、結婚式のリピーターはほとんど存在しないと言っていい。したがって、消費者は費用相場やサービスなどの情報をほとんど得ることができなかった。完全にクローズドの世界だったのである。
そしてWebでの情報共有が進むと、こんな風に。
冒頭の例のように目新しい演出が紹介されると、あっという間に広まってしまうことだ。「おかげでどんな『サプライズ演出』を編み出しても、すぐマネされる」と頭を抱えるのは、前出の室山氏。
たとえば、結婚式の模様を撮影したムービー「エンドロールムービー」の上映サービスは同社が先駆けだが、今ではごく一般的な演出法として知られている。花嫁たちの口コミ力がここまで絶大でなければ、後追いする業者もさほど増えなかったに違いない。
評判の良し悪しがいち早く伝わるばかりではなく、企画力という独自性すら潰されかねない――長く情報から遮断されていたブライダル業界は今、ネット社会のほんとうの怖さに直面しているのだ。
女性の結婚式に懸ける情熱、そしてその結果起こっている上記のような現象には、業界人でない私も空恐ろしさを感じます。
葬儀業界も最近は各社が企画に工夫を凝らしていますが、元々パクリとか平気な業界だけに、似たような状態にいずれなるだろうことが想像されます。
結婚業界との違いは、「ゼクシィ」のような情報誌がないことですが、いずれシニアを対象にしたその手の雑誌が刊行されるかもしれません(ぜいぜい季刊でしょうが)。それよりも、シニア向けの雑誌の有力コンテンツとして供養などの話題が盛んに取り上げられる、ということがありそうです。現に、直葬ブームは新聞やテレビの報道が煽っていると見られる面がありますし。
]]>(非合法的な手段などを用いて、無料、ないしは格安に入手することができる場合もありますが、それはひとまず措きます。)
で、これについて最近思うのが、表題のようなこと。満足するかどうかは、鑑賞してみないとわからないのに、先に金を払えというのは、理不尽だよな、と。
書籍やCDといった「モノ」としてしかコンテンツを入手できなかった時代はその理不尽さが気になりませんでしたが、デジタル化とともに耐え難くなってきました。なお、本についてはデジタル化はいまだ不十分ですが、いわば予期的に「デジタル化されたら・・・」という前提で考えるようになっています。
最近は、コンテンツの評価を最大5つまでの星で評価することが一般化してきました。人によって評価の基準、厳しさ・緩さがまちまちという問題はありますが、支払ってもいい対価に対応させれば、おおよそ次のようになるのではないでしょうか。
星5つ(☆☆☆☆☆)・・・喜んで支払う。かつ、周囲に宣伝したいレベル。
星4つ(☆☆☆☆)・・・喜んで支払う。
星3つ(☆☆☆)・・・いくらかは支払う。
星2つ(☆☆)、星1つ(☆)・・・支払いたくない。星1つについては、無駄にした時間の分、こっちが支払ってもらいたいくらい。
コンテンツの提供者が、星3つから星5つに対応する対価を決めれば、それが一種の評価基準となるのではないでしょうか。で、4つ、あるいは5つを付けてくれた人には、プレミアムを付ける、と。
どんなプレミアムがありえるか、どんなプレミアムがいいかを、次回考えてみます。
]]>ここで言う「熱狂コンテンツ」は、前回のエントリで述べた星5つのものに該当します。モノによっては、熱狂というよりしみじみとした感動、あるいは、目からウロコといった形での感心の仕方を取るかもしれませんが。
そんな熱狂コンテンツに対し、我々はより多く支払ってもいいと思うのではないでしょうか。そして、そのコンテンツをずっと手元に置いておきたいと思うでしょう。
一方、コンテンツ提供者の側は、そうしたファンに、どんな形で報いることができるでしょうか。アナログなコンテンツなら「豪華版」なんてのが意味を持ったでしょうが、デジタルの世界ではあまり使えそうにありません。こちらで鍵になるのは、参加だと考えます。
つまり、そのコンテンツをめぐる語りの場に参加し、時には、コンテンツにメタ情報を加える営みに参加する。そして、ファン同士で互いに知り合い、交流を深める。まぁ、即席のSNSみたいなものです。つまり熱狂コンテンツに対してプラスアルファの対価を支払うのは、こうした場に参加するためのパスポートとなるわけです。
こうして考えると、デジタル時代のコンテンツはいろんな意味で開かれたものになりそうです。次回は、その辺のことをもう少し考えてみます。
]]>でも実は、我が国が取り得る国家戦略って、そんなに幅がないように思います。自明というか。
おおよそ、次のようなことが入ってくるのではないでしょうか。優先順位には、議論の余地があるかもしれませんが。
で、これをキャッチフレーズにまとめるなら、「世界に貢献し、引っ張るニッポン:高齢社会、緑の文明、ポップカルチャー、そして何より、人で・・・」
こういったものなら、多くの日本人の賛同を得られるし、情熱もかきたてると思うのですが、どうでしょうか。
]]>80歳の主人公がやろうとするのがランジェリーショップの開業ということで、因習的な田舎の村人たちの嘲笑や反感を招きます。でも、周囲の友人達はある面彼女に感化され、そして彼女を盛り立てる側に回ります。
そして最後の「合唱祭」の場面。言ってみれば勧善懲悪ですが、やはり胸のすくシーンです。孫の世代が良き理解者となった、というのは示唆的です。
ところで、人類の歴史においては、新しいことに挑戦しようとした者が、伝統や慣習にとらわれた凡人達に押しつぶされたことが、幾度となくあったはずです。そんな悲劇を考えると、涙すら出てきそうになります。
この映画を通じて、若い頃の夢を改めて追い求めてみようという人がいれば、とても素敵なことです。せめて我々は、夢追人を嘲笑したり、足を引っ張ったりはしたくないものですね。
]]>まず、個人の生の充実、ということについて。
人の生きる目的は何でしょうか?幸福になること?いや、幸福は目的ではなく、結果でしょう。目指すべきは、その人なりの生き方でより良い生、より充実した生を生きることなんだと思います。
で、以下は私なりに考える「充実した生の条件」。
1.いわゆるワークライフバランス
「仕事か、私生活か」ではなく、「仕事も、私生活も」ということです。でも、時間の面でもエネルギー配分の点でも、7:3とか8:2の比率で、仕事の方が大事ですが。少なくとも男性においては、仕事において見るべきものがなければ、人生の「失敗度」はかなり高くなります。
なお、私は仕事において「生涯現役」が理想と考えますが、これは全ての職業に可能なこととは言えませんので、万人に押しつけるつもりはありません。
2.志を持って生きる
夢と志は違います。夢は、自分がどうなりたいとか自分がどうしたいといった、徹頭徹尾自分目線のもの。志は、より良き社会へのビジョンを含んだものです。それを実現するのは、別に自分でなくても構わない。実現に少しでも貢献できれば幸せ、といった程度のものです。
はっきり言って夢レベルの願望しか持ち合わせていない人と、志を持っている人では、生き方の水準が全然違います。夢すら持たずにただ日々を送るのは、論外ですが。
3.仕事で社会に貢献する
2.と3.は密接に関連します。というより、3.は2.に含まれている、と言ってもいい。でも、あえて強調する意味で、別にします。
仕事をする。生みだした価値の対価として報酬を得る。それは最低限の基準値だと思います。これからは、さらに「社会・顧客への貢献」ということも考えたいものです。たとえば、おいしいけど不健康な食べ物を提供する飲食店は、仮にどれだけ繁盛しようとも、真に社会に貢献しているとは言えないのではないか、といったことです。
別にこれはキレイ事なんかじゃなく、目覚めた人なら、こうした高いレベルでの社会貢献がないと、自分の仕事に満足できないのです。
4.家族や友人との交歓
これについては、あり方はひとそれぞれなので、特に言うべきことはありません。いくら仕事で充実していようとも、仕事を離れた人間関係が乏しいのでは、やはり「寂しい人生」と言わざるを得ません。
もちろん、家業としての仕事に取り組み、仕事と家庭が不可分、ということはあるでしょうし、それはそれで結構なことと思います。
5.一生、学び、成長し続ける
職業上のスキルといったものはもとより、やや古臭い言葉で言えば、人格や識見も磨き続ける。「今の自分が、これまで生きてきた中で最高だ。でも、まだまだ成長したいし、成長できる」と胸を張れる人は、立派です。少なくとも、向上心を失ったら、人間はおしまいですよ。
こんなところでしょうか。縮めて言えば、「仕事も私生活も大事。仕事面では、志を持って働き、社会に貢献するような成果を挙げよう。私生活では、家族や友人と深く交流しよう。それらを通じて、一生成長し続けるのだ。」といった風になるでしょうか。他にあれば、また追加します。
で、私の議論のミソは、これが「望ましい社会のビジョン」と連関しているということです。個人が自分の志を構想する際には、望ましい社会のビジョンが不可欠ですし、また、あり得べき望ましい社会のビジョンには、「個人がいきいきと暮らせること」というのが必ず入ってくる。
ということで、次回は「人々がいきいきと生きる社会を創るには」というテーマで行きます。
]]>原理1 利己主義者は、他者と助け合うことができない(互恵不能原理)
原理2 利己主義者は、いかに取り繕おうとも、利己主義者であることが「ばれて」しまい、自滅してしまう(暴露原理)
原理3 利己主義者に支配された集団は、集団ごと自滅してしまう(集団淘汰原理)
興味深いのは、原理3ですね。利己主義者が多数派・権力側となると、その集団の力が削がれ、あるいは持てる資源を消尽する。結果、仮にいくらか利他主義者がいたとしても、集団自体が滅び去ってしまう、と。
理屈の上では、利己主義は愚かだということはわかります。でも、現実には世の中から利己主義はなくなりません。個人的には、人には生存本能・自己保存本能のようなものがあるので、利己主義の根は結構深いのではないかと思います。
一方、利他的行為をしたときに快感を感じるのも、また事実で、こちらも俗に言う本能に根ざした行動と考えられます。人間の性は善か悪か決められず、天使も悪魔も心に棲んでいるというのが実情でしょう。
ここはやはり、教育、あるいは心のトレーニングによって、利他的行動が習慣化するように仕向けるのがいいと思います。もう一つ重要なことは、利他的行動が優勢な組織や社会では、利他的行動がより行われやすくなるということ。きっかけは何でもいいから、利他的行動を「当たり前」にしちゃえば、「こっちのもの」なんです。
]]>これからのコンテンツは、おおよそ3つのレベルで開かれたものになる気がします。
1.変化に対して開かれている
まず、これが一番重要です。ソフトウエアが頻繁にアップデートすることを思い浮かべてみてください。これからのコンテンツは、変化・改良に対して開かれたものになるはずです。
書籍などでは、ある個人が一つのテーマについて一生改訂を繰り返す、ということも当たり前となるでしょう。逆に、同じテーマでタイトルだけ変えてまた儲ける、という手法は、通用しなくなるはずです。
2.メタ情報の追加に対して開かれている
本人によるものもそうですが、受け手・消費者によるメタ情報追加も一般的になるでしょう。これは革命的なことです。作品が、多くの人の協業によって磨き上げられていく、ということだからです。
メタ情報としては、要約や図解なんかが一番有用かと思います。他にも、タグや外部へのリンクなんかが考えられます。それ以外にも、今の我々の想像を超えるものが出てきたとしても不思議ではありません。
さて問題は、追加されたメタ情報の質が低いと、単にノイズにしかならない、ということでしょう。これについては、何らかの評価システムが組み込まれるべきとは思います。たとえば、メタ情報を参照した人が、気軽に「お役立ち度」を投票できる仕組みとか。
3.改変や再利用に対して開かれている
コンテンツが単独で存在するのではなく、別のコンテンツに活かされる。このサイクルが円滑に回り始めれば、人類は驚くべき文化的多産を実現できるでしょう。爆発的と言ってもいいほどに。
こんな時代には、著作権のあり方も当然見直されなければなりません。基本的なスタンスは、権利を重んじるばかりに著作物の活用が妨げられることがあってはならない、ということでしょう。著作権についてうるさく言う著作者は、2.や3.の利点を自ら放棄するようなものですから、その質において周囲を黙らせるくらいに圧倒的というのでない限り、誰からも相手にされないでしょう。
]]>有権者がバラマキを喜ぶなら、是非もありません。マニフェストに記されたバラマキは、粛々と実行に移されるべきでしょう。
ただ私が危惧するのは、一度始めたバラマキは、やめるのが難しい、ということ。始める前は「バラマキだ」と言われたものでも、いったん定着してしまうと、既得権益と化すからです。高速道路1000円なんかも、もうやめられなくなってるんじゃありませんか?
家計が節約をしようとするなら、恒常的な支出を削ったり省いたりすることを考えます。国においても同じで、恒常化しそうな支出を決めるときは、その目的をしっかり定め、効果がないとなったらやめることをあらかじめルール化しておかないと、際限なく無駄を垂れ流すことになるんじゃないでしょうか。
いずれにしろ、政治家にも国民にも、財政についての危機感が足りなさすぎるように思います。やはり、財政が破綻するとか、ハイパーインフレになるとかしない限り、目が覚めないんですかね-。
]]>ここでは、ヤン・ハーラン氏が私の好きな映画監督S・キューブリックへ捧げた弔辞の冒頭の部分を紹介したい。
「スタンリーは葬式が大嫌いでした。この数日、私は心の中でこの問題について彼と議論を続けてきましたが、こんなふうに言う彼の声がいまにも聞こえてくるようでした。
『葬式? 冗談だろ。俺はその手のものは嫌いなんだよ。とっとと忘れてくれ』
しかし、そういうわけにはいきません。
この手の集い、この手のお別れの会は我々の文化の一部であり、あまりに大きなものを失った悲しみを受け止めるのに必要なものだからです。」
最近だと、赤塚不二夫の葬儀でタモリが述べた弔辞は、胸に迫るものがありました。
親しい友人などであっても、相手のことを心底どう思っているかなんてことは、生前には口にしないものです(特に男性同士の場合には)。なので、故人と自分との関わりをまるごと振り返る弔辞というのは、貴重な機会です。
そして、葬儀やお別れ会などでいろんな人が弔辞を述べれば、故人が周りとどのように関わって来たか、周りからどのように見られていたかがいわば立体的に浮かび上がってきて、興趣は倍加します。お別れ会の核となる「コンテンツ」は弔辞(私に言わせれば、追悼スピーチ)だ、と私が考えるのも、その辺にあります。
なお、今後はそうした集いで述べる弔辞と並んで、ブログの追悼記事というのも大きな存在になってくるでしょう。リアルの世界の知人や親戚などの死より、有名人の死の方がショック、というケースが今後ますます増えるでしょうから。
]]>細かい事情は言えない・言いたくないので、ここでは、財布をなくしてからのことについて書きます。
まずやったのは、クレジットカードを止めること。使われてしまっては、目も当てられませんから。で、その時点ではカードが戻ってくるとも思えなかったので、再発行を依頼しました。これには、手数料が525円かかるとのこと。
次に、銀行へ行って、キャッシュカードの再発行手続きをしました。いつもながら、銀行のまどろっこしい対応には腹が立つのですが、この際には、
という手続きを経る必要があるようです。最初電話で連絡していれば、1.は必要なかったのかもしれませんが。悪用を恐れてのこととは思いますが、そのために顧客に面倒を掛けるのは本末転倒じゃないでしょうか。しかもこの場合、キャッシュカードを別に作ったからといって、悪用しようがないですし。
で、その他私の財布には、
などが入っていました。前二者についても再発行などを手配しないといけないな、と考えていたところで、財布が見つかりました。
一時的とはいえ、財布をなくしたのは社会人になったばかりの頃に次ぎ、二度目です。現金はあきらめれば済むことですが、カード類は手間がかかるのでうんざりです。
今回の経験により、
ということを学んだ気がします。
]]>折しも、私は今、Amazonプライムのお試し体験を利用中です。これは年会費3900円のサービスを、1ヶ月間無料で体験できるというものです。
プライムの具体的なメリットとしては、
ということで、つまりは、読みたい本があれば、配送料を気にせず、即日、または翌日にその本を入手できる、というものです。
3900円、つまり月々300円少々の料金は、微妙というか絶妙な価格設定かと思います。上記の恩典にメリットを感じる人、それなりの頻度でAmazonを利用する人なら、決して高くないでしょう。
私はこれまでコンビニ受け取りができることが気に入って、セブンアンドワイをよく利用していたのですが、今後はAmazonプライムに登録した上で、Amazonをメインの購入先にしようかと考えています。
Amazonの魅力は、Amazon自体のサービスもさることながら、ネット上の様々なサービスやアプリケーションと連動していることです。すべてを知っているわけではありませんが、エコシステムと言ってもいいくらいの充実ぶりなんじゃないでしょうか。一頃言われた「勝者総取り」を見る思いがします。国内の書籍販売業者がこれを凌駕するのは、困難な気がします。(一部では、bk1の評判がいいようですが)
週刊東洋経済を読んだら、また感想をアップします。
]]>葬儀屋さんたちのブログでは、かなり前からその動きが記されていたので、このニュースそのものに驚きはありません。とりあえずは、3年で「シェア」10%と豪語するイオンのお手並み拝見というところですね。
さて私事ですが、私の社会人としてのスタートは、イオングループの結婚情報サービス会社でした。ですので私も一応、イオングループOBなんです。会社とケンカして辞めたわけではないので、その会社やイオン自体に敵愾心や嫌悪感はありません。ただ今回こうしてイオンが「敵」となって現れてきたことには、若干の感慨があります。
「敵」と言いましたが、これには未確定なところもあります。私は既存の葬儀業界を壊滅的なまでに縮小させることを目標としています。その意味で、イオンがビジネスチャンス(つまり、儲け)を求めてこの業界に来たとしたら、お生憎様というしかありません。
ただ、イオンの参入が業界の構造や体質の改善につながるなら、それを歓迎したい思いもあります。私は既存の「お葬式」は都会人の感性に合わなくなっていると見ていますが、消費者がなお「いいお葬式」を望むなら、是非もありません。
ともあれ、今後もイオンの動きには注目していきます。
]]>さてそんな中で感じるのが、Webの時間軸が明らかに短期化しているということ。リアルタイムというと語弊がありますが、数十秒、数分の単位で情報が更新されたり、コミュニケーションが交わされたりする。
従来から2ちゃんねるには実況板なるものがあり、そこはかなりリアルタイムWebでした。けれどもそれは一般的でなかった。それがTwitterのブレイクで、一挙に一般化しそうになってきました。
大ざっぱに言って、Web上のメディアの主流は、ホームページからブログへと変遷してきました。それがさらに、Twitterなどのマイクロブログへ移りつつある、というのが現状だと思います。
今でも大半の人は、ブログの記事を一日に一件以下しか書いていないはず。その点でブログは日単位のメディアです。でもTwitterであれば、それなりに使う人なら普通に一日十回以上はつぶやくでしょう。「秒」までは行かなくても、少なくとも分単位・時間単位のメディアなのです。
何を食べたとか今どこにいるとか、しょうもない情報がさらにあふれるようになったという弊害はありますが、今まで以上に人々の活動や思考がWebに乗ってくるようになったという点で、この変遷を私は肯定的に捉えています。一言で言って、ますますWebが面白くなってきた、というのが実感です。
ただこれにもマイナスはあり得ます。思考が刹那的、条件反射的になり、一つのものを粘り強く考えたりできなくなるとか。現に私は、映画の2時間という間尺を「長すぎる」と感じることが多くなってきましたし、単行本を読み通す力も衰えている気がします(読みたい本リストと積ん読本は、たまる一方です・・・)。
折しも、こんな記事が話題に。
マルチタスク習慣はオフライン時でも思考に悪影響? | WIRED VISION
宜なるかな、ですね。
]]>起動が速い、バッテリーの持ちがいい、小さくて軽い、というとてもわかりやすいメリットを持っています。OSがLinuxの一つであるUbuntuなのも、ナイスですねー。
できれば、Android版、またはChrome OS版も出してくれないものでしょうか。
ここのところ、「ネット環境を持ち歩く」ということに物凄く惹かれるものを感じています。「iPhoneも考えるかな」と思い始めた矢先だったので、これは一挙に本命に躍り出ました。Apple製品は、その閉鎖性・独善性が好かんのですよ。
これを入手したら、
に利用したいものです。SHARPはこの製品にあえてザウルスの名を冠さなかったようですが、印象としては、ザウルスが進化して還ってきたという気がします。
]]>ひとまずは、「政権交代」という旗印を国民が支持した、ということでしょう。そして、麻生首相を続けるか鳩山首相に替えるかという点において、後者を選んだ、ということでもあります。
これからしばらく政治ネタが増えるかと思いますが、以下は選挙翌日時点での雑感です。
など、いろいろありますが、やはり政治は面白いです。。。
]]>新聞のコラムでは、その形容に違和感を覚えたらしいものが散見されます。
余録:「孤独死」というレッテル - 毎日jp(毎日新聞)
金口木舌(2009年8月28日) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
発見当初は「死後2週間経過」という見立てでしたので、孤独死が強調されたのは致し方ないことだと思います。夏場の2週間といえば、腐敗の進行も相当なものでしょうから。ただ解剖の結果は「死後3日程度」。これなら、孤独死をあまり強調する必要もないような気がします。ただ当初2週間と言われたということは、それだけ遺体の状態が・・・。
孤独死という言葉の定義は、いまだ定まっていません。ポイントとしては、
といったところでしょうか。「しばらく」というのは曖昧です。ただこれは、時間が短ければ(たとえば死後数時間)「孤独死と言えば孤独死」ということになるでしょうし、長ければ「誰がどう見ても孤独死」ということになる。
孤独死が「問題」であるのは、死後の片付けが厄介になり「損害」を生む、ということと、隣人や家族など周囲の人のにとって心の傷になる、ということだと思います。それらがなければ、仮に定義上孤独死に当てはまるとしても、孤独死ということを強調する意味はありません。
孤独死という言葉とそれがもたらすイメージは強烈なだけに、他人の死を安易に「孤独死」呼ばわりすることには慎重でありたいものです。
]]>個人的には、しょーもない問題だと思っています。もちろん、格差が5倍や10倍もあって、なお広がり続けている、というなら何らかの手を打つ必要があるとは思います。ただそれは、正義に悖るというより、そのことが政治不信につながるから。
逆に言えば、みんなが「格差は問題ない」と思えば、とんでもない格差があっても、政治システムは成り立つわけです。アメリカ上院くらいしか例がありませんが。
さて私が一票の格差についてそれほど関心がないゆえんは、以下の通りです。
さてもう一つ。小選挙区制では、有権者の一部が「スウィング」しただけで結果が大きく変わります。2005年に自民党に入れ、今回民主党に入れた人は、せいぜい全体の2~3割なんじゃないでしょうか。割合の多寡はともかく、一部の人が結果を左右しているわけで、不条理といえば不条理。でも小選挙区制を取る限り、これは仕方がない。いやなら完全比例代表にするしかなさそうですが、その場合には連立協議の過程で少数政党がキャスティングボートを握ることが多々あり、結局は同じです。
要は、私から見れば、一票の格差を是正することは、政治の質的向上には無関係だということです。そんなことで騒ぐくらいなら、政治の中味を語れよ、と言いたいですね。
上記の運動については、もう一つ言っておきます。彼らは今回、一票の格差についての態度のみをもって裁判官の罷免を呼びかけました。これは裁判官という職業(いや、職業全般)に対する重大な侮辱だと考えます。「どうせ罷免されることはないだろう」と考えて単なる政治的アピールとして国民審査をダシに使ったなら、なお悪い。いずれにしろ、一票の格差を問題視する人たちの品性を疑わせるに足る愚挙ではありました。
]]>今現在、はてなブックマークで2,100件以上ブックマークされています。最近は1,000件を超えるものは少なくありませんが、ここまでのものは月に数件しかないんじゃないでしょうか、たぶん。
さてここで言われていることは至極まっとうです。そんなのわかってらぁ、とも言いたくなる。むしろ驚くべきは、まだこれが世間の常識じゃなくて、「給与水準が上がれば、その職を希望する人が増える」とか「人は少しでも多くの収入を求めて転職する」みたいなことを言っちゃう人が後を絶たない、ということの方です。
内的な動機付け vs 外的な動機付け。自主性・成長・目的 vs アメとムチ。そしてどちらが勝つのでしょう? 内的な動機付け、自主性・成長・目的がノックアウト勝利します。
組織も社会も、これを当然の前提として組み替えなければなりません。古臭い人間観でもって運営されている組織は衰退し、古臭い人間観を持ったリーダーは成果を挙げられず、古臭い人間観に満ちた社会は創造性を殺す。これが、現代のいわば掟なのです。
]]>そこで、Webの代表的なメディアであるホームページ、ブログ、Twitterについて、その位置付けと活用法などについて、自分なりの考えをまとめておきます。なおTwitterについてはミニブログとかマイクロブログと呼ぶのが適切かもしれませんが、実質一人勝ちなので、あえてこう呼ぶことにします。
ホームページ
Webは当初、ホームページの隆盛とともに広まりました。今ではその存在感は相対的に低下しています。とりわけ個人のそれについては。私も、最近は他人のホームページを見ることはほとんどなくなりました。
でもブログとTwitterはジャーナル的というかフロー的というか、いわば流れていく記事や情報を書き込むメディアです。それとは違って情報を体系化して見てもらえるホームページは、存在価値を失うことはありません。
私もホームページを持っていますが、ホームページの問題点は、
といったところかと思います。
ブログ
目下最強のパーソナル・メディアだと思います。ブログすら持っていない人は、Webの言説空間には存在しないも同然と言っていい。
ブログのいいところは、
といったところでしょうか。
今後は、Twitterに代表されるマイクロブログが定着するにつれ、その棲み分け、あるいは連動やシナジーが大きなテーマになってくると見ます。いずれにしろ、ホームページを持たなくてもいいからブログだけは持て、というのが私の持論です。
なお、SNSの中で日記を書いている人も少なくないと思います。ただ現状ブログとは機能の多さという面でもコミュニケーションの広がりという面でも、比較になりません。友だちなどに身辺雑記を見てもらいたい、という以上のことを望む人は、ぜひブログで自分の行動や意見、そして耳寄りな情報を発信するべきです。
Twitter
ブログ以上に気軽に書き込める、というかつぶやけるのがTwitterです。ブログが日単位のメディアなら、Twitterは時間単位、分単位のメディアです。
一部にはメールに取って代わる連絡手段としても機能する、と言う人がいますが、この点は正直ピンと来ません。
私がTwitterに可能性を感じるのは、投稿への敷居が下がることで、あるいは気楽にフォローできることで、Webを通じた情報の発信や共有、意見交換なんかが、ブログ時代と比べて爆発的に活性化することです。
そしてTwitterを前提にすれば、ブログの位置付けや活用法も変わってこざるを得ないでしょう。人によっては、Twitterで全部済ませてしまうのでブログを書かなくなる、ということがあるかもしれませんが、むしろ私などは、
といった相乗効果もあり得るのではないかと思っています。
いずれにしろ、私にとってはTwitterのおかげで、何度目かの「Webマイ・ブーム」が訪れています。全く、まだまだWebに飽きるということはなさそうです。
]]>党再生の第一歩となるはずの総裁選をめぐっても、いろんな人が勝手なことを言っていますし、そもそも今度の首班指名選挙で「麻生太郎」と書くかどうかなんてことが議論になっている。そんなの論外でしょう。国民から見れば、「自民党も落ちぶれたものだな」という印象しかありません。
さて党再生には何をするべきか。私なりの提言を書かせてもらいます。自民党など野党がしっかりしてくれないと、民主党を見放そうにも受け皿がない、なんてことになってしまいますからね。そしたら、日本は本当に絶望の淵に沈むしかなくなります。
理念をはっきりさせろ
私自身は、自民党が国民の信頼を失った最大の原因は、2005年の総選挙で大勝しておきながら、その後総理・総裁をとっかえひっかえし、そのどさくさで路線を転換していったことにあると考えます。いわゆる新自由主義路線を貫いていれば、2005年時ほど大勝できなかったにしろ、政権を失わなくても済んだのではないでしょうか。
そもそも、進むべき路線がはっきりしていれば、安倍はともかく、福田、麻生という人たちが総裁になることはありえませんから。
で、自民党が今後進むべき路線ですが、「保守」に軸足を置くか「自由主義」に軸足を置くかしかないと思います。両者は似て非なるものです。自民党がどっちを選ぼうが構いませんが、相容れない信条を持つ人は、党を離れるべきです。
政策は現実主義・辛口で
民主党が甘言路線を行くのであれば、自民党はそれとは違うべき道を進まないと。そして国民は「うまい話にはだまされないぞ」と思っていますので、これはむしろ有利なポジションです。バラマキを公約しないと票が集まらない、という思い込みは、随分国民をバカにした話だと思います。
政府・与党への対峙は大人の対応で
スキャンダルなどをネタに民主党を責め立てたり、反対のためのための反対を掲げて国政を停滞させたり、というのは、望ましくありません。この点では、ここ数年の民主党の行動は、もっと批判されてしかるべきではなかったでしょうか。
世襲はすぐにやめろ
二世や三世の議員がいるのは構いませんが、地盤を継ぐ形でのいわゆる世襲は、すぐにやめるべきです。このことが、どれだけ自民党のイメージを低下させ、人材流入の妨げになっていることか。
大胆な若返りなど新陳代謝を
次回の選挙の候補者として、若手をどんどん登用するべきですし、同時にできるだけ多様な供給源に人材を求めるべきです。具体的には、政治家子弟や元官僚以外から。そうしたことが、今後の自民党の躍動感や、もっと言えば創造性に寄与するはずです。
自民党には期待しています。でも私でも思いつくような上記のことすらできないようでは、2~3回の選挙ののちには、自民党が消滅しているかもしれませんよ。
]]>どっちが縦軸でもいいんですが、この2つの要素でマトリックスをつくると、次の4つの象限ができます。
【第一象限】知性ー高い、人格ー高い
【第二象限】知性ー高い、人格ー低い
【第三象限】知性ー低い、人格ー低い
【第四象限】知性ー低い、人格ー高い
普通に考えて、知性も人格も高いのが一番望ましく、知性も人格も低いのが最悪です。では残り二つではどうでしょうか。大多数の人は、人格が高い方を選ぶでしょう。賢いけど人間的に問題ある人、というのは、ある意味、知性も人格も低い人より厄介ですから。
こういったことは、別のエントリで考えてみたいと思います。ここでは、両者の関係、あるいは相関について少し。
両者が単純な相関関係にないことは明らかです。「知性ー高、人格ー低」にしろ「知性ー低、人格ー高」にしろ、我々は多くの例外を目にしているからです。では両者は無関係か。
以下は、私の仮説です。
知性にしろ人格にしろ、そこそこのレベルの時は、両者は逆相関の関係にある。つまり、知性を高めることが人格には悪影響。逆もしかり。だが、どちらかを高いレベルで実現するためには、他方も必要となる。なので、社会有数の人格者は、知性においても秀でている。
さて、以上の考察から導き出せる教訓は、こうです。我々凡人は、まず知性より人格を高めることに注力するべきです。運なり才能に恵まれれば、その後知性と人格を高いレベルで両立できるかもしれません。ともあれ、小賢しい不道徳者になるのは、何としても避けたいものです。
]]>ですが最近は表示速度が遅く、エラーとなることもたびたび。ストレスの素となっていました。そこで一念発起して、ブックマークをはてなに変えることを決意。
実はこれまでも、はてなブックマークにはお世話になっていました。「人気エントリー」いわゆるホッテントリはほぼ毎日チェックしていますし、ブラウザFirefoxには「SBMカウンタ」というアドオンを入れ、ステータスバーに各ページのはてブ件数を表示させていました。記事の注目度や価値を測る指標になりますからね。
そんな私が、晴れて、はてブデビューというわけです。早速、livedoorクリップのデータをエクスポートし、はてブにインポートしました。というか、現在しています(まだ1割弱しか終わっていません。何せ、3600件あまりありますから)。
で、はてなブックマークの公式アドオン(?)である「Hatena Bookmark」も導入、これからははてブ使いとして、ますますブックマークを活用していきますよ。
]]>これまでもお出かけした時にブックオフに立ち寄ったことはありますが、お店をザッと見て、気に入った本を数冊買う程度。もちろん、読み終わった自分の本を売ったことはありません。
これからは、書店巡回ルートの中にブックオフが組み込まれると同時に、本を売る、というのが日常化しそうです。時間の面でも費用の面でも、生活に占める本の割合が大きい私にとっては、これは大変化です。
さしあたり、読んだ本を記録するブクログにおいて、星3つ以下の評価とした本は、どんどん売り払って行くつもりです。星3つ以下というのは、私の中では「再読の価値なし」という判定なんですね。
ブックオフについては、当然のことながらネットでも事業展開をしています。相乗効果というのかどうかわかりませんが、これからはこちらも積極活用することとしたいものです。
]]>個人的には、重要度としては他の項目全部を合わせてようやくメッセージと釣り合う、って感触を持ってます。もちろんメッセージなき遺言なんて、不完全と言わざるを得ません。
そんな私が、強く共感した記事。
共感サロン:妻の遺言 - livedoor Blog(ブログ)
最近、少しずつ遺品の整理をしておくのも僕の役目
かなという気持ちになりました。
そして見つけたのです。妻の遺言を「あなたの悪い病気は、全部私が持って逝きますから」
「両親より先に逝くことは辛いです」
「病弱なあなたを残して逝くことを許してください」
「みんな私が背負って逝くから・・みんな元気で・・・」言葉がありませんでした。
自分のことよりも、残していく家族のことを
妻・母として最後まで心配をしていたとは・・・。この遺言はこれからの僕の人生の支えです。
もちろん、愛情や感謝は生前から伝えておくに越したことはありません。ですが、書いたもの(やはりここは、メールやワープロより、肉筆のものが良いです)があれば、なおいい。折に触れて読み返すことができますから。
そんなメッセージは、遺された人にとって、かけがえのない宝物となるはずです。
]]>負のスパイラル
7月の失業率は5.7%と過去最悪を記録
7月の現金給与総額は前年比4.8%減で14ヶ月連続の前年割れ
↓
こうした「稼ぐ力」の低下とそのアナウンスメント効果で、個人消費が萎縮
(購入の数量・単価が下落)
↓
企業収益が悪化
↓
雇用の削減、生産や設備投資の冷え込み
↓
さらなる所得減少
こうした悪循環が回り始めているように思われます。デフレ・スパイラルですね。
外需と公共投資が今回の一時的回復に寄与してきましたが、それが景気の自立的回復に結びついていません。失業率は今後もジリジリと上昇していく気配が濃厚ですが、失業者とその家族はもとより、世の中全体の「気」を暗くする影響は深刻なものがあります。
政権交代、そして世論のムード
民主党が政権の奪還に成功しました。「国民の生活が第一」のキャッチコピーは浸透しましたが、今のところ民主党は、企業活動に冷淡で、マクロ経済運営音痴という印象をぬぐいきれません。
民主党の政治・行政構造改革には期待したいものですが、こと経済においては、不安がいっぱいです。株安・円高・金利高といった悪夢が頭をかすめます。
そして問題は、国民の間にこうした認識が希薄なように見えること。一部には経済成長そのものを不必要ないしは悪ととらえる向きがありますし、景気は良い方がいいと思っている人でも経済活性化に資する策には「大企業優遇だ」「金持ち優遇だ」「格差拡大につなげる」などと言って反対する。
意識的にしろ無意識的にしろ、国民の多くが景気を悪くして構わない、というようなスタンスを取っていること。私が深刻感を覚える一番の理由です。これが解消しない限り、上記の悪循環にはなかなか歯止めがかからないでしょう。
「経済成長はいらない」か?
この考えには、断固として反対です。経済が縮小し続けると、失業、倒産、自殺、犯罪といったものが多発します。そしてそれに伴い、社会の雰囲気は暗くなり、心も荒んでいくでしょう。景気後退とうつ病が英語でともに「depression」なのは、理由のないことではありません。
加えて我が国では、政府部門が大量の借金を抱えた中で少子高齢化が進行しています。景気後退に甘んじていると、経済は坂道を転げ落ちるように衰退し、ひいては将来世代の負担が加速度的に増す、ということになりかねません。また経済成長なき社会はいわば守りの社会、縮こまり社会で、大きな夢を描きづらい、ということも申し添えておきます。
はっきり言って、景気後退容認派は「人でなし」です。
いかにして経済を成長させるか。それは簡単なことではありません。しかし国民の大多数がそれを望ましいと考え、経済について真剣に議論しないと始まりません。
それでもあなたは、経済成長しなくていいんですか?
]]>現在、私のブックマーク件数は3,634件。一日に10件行くかどうかというペースですので、それほどヘビーユーザーというわけではありません。ただ今後は、より積極的に活用していくつもりです。
で、はてブ移転を機に、ブックマークの使い方について見直してみることにしました。
現状私が何かの記事やサイトをブックマークする場合、以下のような基準というか条件に則っています。
従来は記事を読む→ブクマするというシンプルなものだったのですが、今はこれにTwitterという要素が加わりますので、ある面で幅が広がり、同時にややこしくなっています。
まず、ブックマークのRSSフィードを、Twitterfeedを通じて自分のアカウントに流していますので、ブックマークしたものはそのコメントとともに私のつぶやきとして流れます。なので最近は、Twitterでフォローしてくれている人に記事をおすすめするという意識が多少なりとも出てきました。
一方、ブックマークするまでもない場合には、
という方法を取っています。その時々に自分のやりやすい方法を試行錯誤していたらこんな感じで落ち着いたのですが、我ながらややこしいことしていますね。
さて今後ですが、こと遺言・葬送・終末期医療については、ブックマークするハードルを思いっきり下げようと思っています。何らかのユニークな情報や視点を含んだものは、即、ブクマって感じで。で、短くてもいいからその記事に対してブログを書く、と。元記事がブログであれば、原則トラックバックをして。
]]>参考記事:“老人国家”に未来はあるのか ~若年世代にのしかかる負の遺産
年金など社会保障面での「受益と負担」に関して、先行する世代は受益が上回るのに、後続の世代ほど負担の方が重くなります。また個人の所得や資産形成においても、従来の高齢者世代は、高度成長とか年功序列賃金の恩恵を受けて、相対的にかなり有利でした。
個々人で見れば、親や祖父母からの相続によって、この不公平・不平等はある程度解消されるかもしれません。ですが上記に加えて、政府部門の累積債務は後の世代の負担となってのしかかります。それが経済の沈滞につながるなら、負担感は倍加することでしょう。
昨日、100歳以上のお年寄りが4万人を突破し過去最多を更新した、というニュースがありました。それなりに喜ばしいニュースと思ったのですが、2ちゃんねるのニュース速報+板を見ると、「老いぼれは早く死ね」的なレスが圧倒的で、やや衝撃を受けました。一部とはいえ、老人憎悪のような感情が若者の間に芽生えつつあるのは、間違いありません。
さてここでは、ちょっとしたアイデアを書いてみます。それは日本の先行きの明るい・暗いによって上下する指標を設け、年金(その一部でもいいので)の利回りがそれに連動するようにする、というものです。金融技術に詳しくないのでどのようなものが可能かはわかりませんが、何なら日経平均とかTOPIXに連動するETFでもいいかと思います。
複利は恐ろしいもので、年間1%の利回りの違いでも、数十年にわたって累積すると膨大なものとなります。自分の老後の虎の子の年金が関わるとなれば、老人ないしその予備軍も、少なくとも中期的に経済上プラスになる政策を支持するようになるのではないでしょうか。もちろんこの指標の上下は、内閣支持率なんかにも直接響いてくるはずです。
先の掲示板スレッドでは、老人の選挙権を剥奪するといい、という意見も散見されました。そうならないためにも、建設的なアイデアを出し合いませんか?
]]>先月16日に焼き肉オフ行って隣に座ってたあの@kirishima16でした.その3日後の8月19日に亡くなられたようで,死って身近すぎて怖いとしみじみ感じさせられますね.TwitterってTL上からいなくなっても埋もれるだけでなかなか気付けないため,半月以上経って突然突きつけられた感じです.お二人の関わりについて、詳しいことは全く存じ上げません。なので、以下は一般論です。 確かに、Twitterにおいては、特定のFriendがつぶやきを何週間もしていなかったとしても、気付かないことは多々あります。 その辺のことも含め、将来的には、自らの訃報がソーシャルメディアを通じて流れるようにしておく、というのが「マナー」みたいのものになるかもしれません。ブログやSNSであれば、親族に死亡通知の記事を投稿してもらうとか。 Twitterについて言えば、いずれは生体情報と何らかの形で直結して「危篤」とか「絶命」というポストが自動的に送信されるようになるんではないかと思います。孤独死対策にも使えそうですしね。で、そのポストがReTweetされまくって、Twitterのネットワークを通じて訃報が広まる、と。まぁ一番手っ取り早いのは、親族がiPhoneやケータイなどを使って、故人のアカウントから訃報を告知することですが。 訃報を知った人はどうするべきでしょうか。リアルの知り合い、友人ならともかく、オンラインを通じてのみの知り合いであれば、弔問に訪れるというのは不自然なことかと思います。やはりあくまでネットを通じて追悼し、弔意を表すのがいいんじゃないでしょうか。具体的には、故人の書き込みをまとめて読み返す、追悼記事を投稿する、など。 遺族の側も、ネットを通じて情報発信するのが親切だと思います。たとえば、葬儀やお別れ会の映像を配信するとか、追悼の記帳ができる掲示板なりコメント欄を準備するとか。 Twitterを通じてのつながりは、とても緩やかなものです。それが心地いい。でも、何年にもわたってタイムラインでその人の生活の息吹を受け取っていれば、訃報を聞いた時に少なからぬ衝撃を受けるのもまた当然。我々は、新しい「二人称の死」と向き合おうとしているだと思います。]]>
そしたら、こんな記事が。
ユタ州、「週休3日制」で180万ドル節約する : ライフハッカー[日本版], 仕事も生活も上手くこなすライフハック情報満載のブログ・メディア
ここにあるように、1日10時間働く代わりに、週3日休みを取る、というのが現実的な方法かと思います。
では3日間の休みをどう使うか。1日は、レジャーや休息など、自分をいたわることの充てるのがいいでしょう。で、残り2日は、勉強会やボランティアなど、仕事ではないんだけど社会と関わるようなことに充てる、と。
ワークライフバランスという言葉が少し前にもてはやされました。週休3日が定着すれば、仕事でもない、家事でもない第三の領域が活性化する可能性があります。そのことは、いろんな面で個々人の仕事や家事にプラスになるでしょう。
個人的には、現実的なところとして週休2日半を理想にしています。半休の日の午後は、セミナー等に参加したり、映画や演劇を見たりする「お出かけ」に充て、完全オフの2日は、読書と社会参加に充てる、と。この2日は、連続していなくても構いません。というか、その方がいい。
あとは、年に一度、2週間くらいのまとまった休暇を取り、仕事はもとより、人生や家族などについてじっくり見つめ直す時間を持てたら、最高ですねー。そろそろ夢想に近づいてきたので、この辺でやめます。
]]>私は、期待3割、懸念7割でこの政権を見ています。政治改革や行政改革には成果を挙げてくれそうな気もしますが、経済や外交では不安がいっぱいです。また、政権運営につまずいて、国民からあっという間に見放される危険性もあります。
さて、民主党に対してはいろんな提言や要望がメディアを通じて寄せられていますが、「マニフェストを忠実に実行する必要はない」というのを結構見かけます。国民は自民党を拒絶し、政権交代を成し遂げるために民主党を選んだのであって、民主党のマニフェストに全面的に賛成というわけではない、というのです。
実態はそうでしょうが、選挙が終わったらマニフェストはゴミ箱行き、というのはいただけません。そんなことを許していたら、選挙の時に掲げる政策は何でもいい、という話になります。実行してみて取りやめるとか、議論の過程で微修正するとかいうのは構いませんが、全く手を着けない、というのでは二枚舌と言わざるを得ません。
私自身も民主党のマニフェスト、とりわけバラマキと言われる部分には全く賛成していませんが、民意が民主党を選んだ以上、それらは実行に移されるべき、と考えます。マニフェストのあり方に問題があるのは確かですが、出す側が真剣に出し、選ぶ側が真剣に吟味する、その最低限のことすらできないのでは、我が国の政治風土はいつまで経っても成熟しないでしょう。
できればマニフェストは、専門家の批判にある程度堪えることができ、また現状をきちんと踏まえたものであるべきです。残念ながら民主党の今回のマニフェストは、その条件を満たしているとは言い難い。それでも、愚直に実行に移すことで、民主党自身も、また国民も、いくらかは学習するんじゃないでしょうか。起こり得る弊害は、そのための授業料とでも考えるしかありませんね。
]]>要は、Twitterを見たり書き込んだりできるWebサービスなんですけど、「タブ」や「カラム」をカスタマイズできて、自分なりの画面を作り込むことができるのが特徴です。
小さいので分かりづらいかもしれませんが、3つあるカラムのうち、左は私自身のつぶやき、真ん中はいわゆるパブリック・タイムライン、右は私宛のメッセージです。こうしたタブがほかにも2つあり、「遺言」タブでは、「遺言」「相続」「葬儀」という語を含んだつぶやきを検索して表示するようにしています。
私のように複数のアカウント(@yuigon_info/@fuhou_news))を駆使している人や、Twitterを情報収集ツールとしても活用している人には、HootSuiteは有用です。
さてここで話したいのは、HootSuiteのことではありません。HootSuiteという高機能Webサービスを使うに当たり、普段使っているFirefoxでは「もっさり」感を覚えたため、すぐにGoogle Chromeを使うことにしたんです。それも、以前から知っていたが使っていなかったアプリケーション化という方法で。
Chromeのアプリケーション化とは、どういうことでしょうか。それは、あるWebサービスへのショートカットを作成、クリックするとそれが独立したウィンドウで立ち上がる、というものです。メニューバーやアドレスバーも表示されず、さながら、固有のアプリケーションを使っているような感覚です。これを幸いと、GmailとGoogleカレンダーについても、同様の使い方をすることにしました。話題の「Wave」が出たら、やはりこうするでしょう。
Chromeは速さをウリにしているだけあって、確かに操作性は快適です。また起動も速いので、あえて常駐させておく必要がないというのも、ありがたいです。ウィンドウがいくつも表示されるブラウザからタブブラウザへの変遷は進歩だったと考えますが、Webサービスごとにウィンドウを切り替えるという形で、元に戻っていくかもしれませんね。もちろん、その時も通常のWebサイトはタブで見た方が快適ですが。
今後、ブラウザは「インターネット閲覧ソフト」なんかではなく、Webサービスクライアントとでも言うべきものになるではないでしょうか。
]]>谷垣氏が64歳で、残りの二氏は40代半ば。「世代」が一つの焦点になるのは否めません。それぞれの支持者に、政策はさておき世代で選んでいる人たちも少なくないようですし。
ただ、自民党に必要な議論は、どの世代がトップに立つかではなく、今後どういう理念で進んで行くか、ではないでしょうか。そもそも党の方針がはっきりしないようでは、選挙の顔ともなる総裁を選びようがないじゃありませんか。
中堅・若手の間には、「ベテラン議員ではダメだ」という思惑があると聞きます。確かに永田町の古い論理にどっぷり浸かった年寄りでは、国民の支持を得るのは難しい面があるでしょう。けれども、世代が唯一とは言わないにしろ大きな基準になるのは、いかがなものでしょうか。「年寄りは去れ!」といったムードが醸成される様子には、違和感・危うさを覚えます。
これは政治に限ったことではありません。各分野で若手がベテランを年寄り呼ばわりするようになると、中長期的にその分野は弱まって行く気がします。なかなか難しいことでしょうが、世代に関係なく能力を発揮でき、ベテランが若手に教えられることがあれば押しつけがましくなく教えられる。そんなのが理想ですね。
ちなみに自民党については「我が党は自由民主党である。"民主"より"自由"が先だ」というのが旗印になる、というかそれしかあり得ないと見ています。世代云々は別にしても、谷垣総裁というセンスはあり得ないんじゃないでしょうか。
]]>死ぬ前につくりたい10のリスト - IDEA*IDEA ~ 百式管理人のライフハックブログ
で、原文はこっち。
10 Important Lists to Write Before You Die | Your Life Coach
ライフ・コーチなる人が、90代半ばのクライアントをコーチする中で生まれたものだそうです。できあがったリストを見れば、その人の人生を知らない人でも、何かに役立つかもしれない、という趣旨で作られたそうです。まさに、どんなリストを作ればいいか、のリストです。
以下は、私流の訳にて。
最後が印象的ですね。私も同じことを考えています。志は実現されなかったとしても、それを表明しておくことは、後に続く者のにとって意味があることだ、と。
This may seem a strange one to end with but the idea is not to get sorrowful and look at regrets or lost opportunities. This is to be a list of things that others could do well to take note so that they too do not miss out. It can also be an opportunity to express hidden dreams and talents, you never know, it may not be too late to do at least one of them!
(これが最後に来るのは奇妙に見えるかもしれない。だがこれは、悲しみに暮れるためでもなければ、失望や失ったチャンスを直視するためでもない。これは、他者が同じ過ちを冒さないよう、注意してもらうためのものなのだ。またこれは、あなたも知らなかった隠れた夢や才能を表に出すきっかけにもなる。少なくともどれか一つは、まだ手遅れじゃないはずだ!)
元の文にもあるように、早くからこれを作っておいて、時々修正するというのがおすすめですね。死が間近に迫った段階でリストを一から作ろうと思ったら、手遅れになる可能性大ですから。
上記を参考に、私もリストを作ってみました。ご自由に活用ください。
まばたきすること以外体を一切動かせなくなった男の生の物語です。全身不随ということでは「海を飛ぶ夢」を強く連想するのですが、あちらは死に向かっての物語ですので、好対照というか双璧を成す、といった感じです。
映画冒頭は、主人公の目線でカメラが回っていることが多く、その視線の不安定さ、焦点の合わない様と、思いの外頭脳明晰なところに違和感を感じ、映画に入り込むまで30分ほど要しました。そのあとは快調で、全体としては心に響くいい映画だった、と思います。
美人というよりいい色気のある女優さんが次々出てきて彼に優しくしたり愛を打ち明けたりします。いわば、ハーレムの構図。この女優群像も、この映画の魅力かと思います。ただ、私が酩酊状態で観たせいもあり、ところどころ誰が誰だかわからなくなることがありました。また、有名雑誌の編集長という主人公のモテモテぶりには、あまり共感できなかったのも事実です。
映画としての完成度では「海を飛ぶ夢」よりかなり劣る、というのが一度観ての評価です(それでも、星を付けるなら4つです)が、映画のメッセージとしてはこちらの方が健全かつ前向きかもしれません。彼の手になる自伝も、早速読んでみることにします。
]]>認知症ケアをスムーズに進めるために、本人があらかじめ記入しておくノートです。エンディングノートを連想しますが、あちらは希望や意思を記入するのが主眼なのに対し、こちらは介護において「個」として尊重してもらうためのもの。「私を知って」ノートとでも言いましょうか。
もちろん両者ともに、書く過程で自己省察や自己発見を促す効果があります。その意味では、誰もが書いておく価値がありそうです。
また記事中の
「大事にしてきた人間関係や生きがいなど幅広く人生観を尋ねるといいのでは」
という介護経験者の方からの提案も、心に響きました。いろんな人のアイデアや実践をもとに、このノートのフォーマットが改善されていくといいですね。クラウドソーシングってヤツです。同時に、子供など家族が聞いていきたいことをヒヤリングするのもいいんじゃないでしょうか。人それぞれ、人生の特徴は異なりますから。
記事ではもう一つ、認知症介護研究・研修東京センターによる「センター方式」というのも紹介されていました。介護スタッフによるヒヤリングの手引き、ひな形のようです。こちらも、勉強しようと思います。
]]>ぼくは、「介護はゴールのないマラソン競争」と話したことがある。
このごろ、男性の介護者が全体の3分の1を占めるまでに増えてきて、
想像を超える、いい介護をしている。
けれど、それゆえに、心配な点が2つほどあると思っている。
1つは、一生懸命やりすぎて、完璧主義になりすぎる。
社会サービスを上手に使わない人も少数いる。
もっと社会サービスを信用して、上手に使いながら、息長く介護を続けたほうがいい。
もう1つは、女性のように井戸端会議の経験があまりないということ。
地域に仲間がいない。
耳寄りな情報が2つあります。
まず、男性の介護者が3分の1に達しているということ。意外に多いな、と思うと同時に、さもありなん、と思う面もあります。そして、まだまだ増えてもおかしくないな、とも。
夫が介護者となる典型的な二例を考えてみましょう。まず、夫が妻を介護するケース。昔は見合い結婚が多く、男性の方がかなり年上だったため、夫が介護される方が圧倒的に多かったはずです。けれどこれからは年の差のあまりない夫婦(妻が年上のケースも少なくありません)が高齢化してくれば、夫が妻を介護するケースも増えて当然です。
男女で認知症になる「確率」に差があるのかどうかは、わかりません。そもそもそうした統計があるのかどうか。あとで調べてみます。
次に、子が親を介護するケース。今後は未婚の独身者が増えていきます。しかも、男性の方が人口は多い。となれば、子が親を介護するケースについても、男女が同じくらいまで近づいてきても不思議ではありません。
女性の介護の場合、これまでは嫁が義父母を介護するケースも少なくなかったようです。これについては、婿が義父母を、なんていうのが目に見えて増えるとは考えられません。ただ、嫁による介護は恐らくレアなケースになっていくでしょう。親子の間もかなり「水くさく」なっているのに、嫁に介護してもらうというのは、ますますハードルが高くなってくるだろうからです。
「想像を超える、いい介護をしている。」というのも、耳寄りです。仕事の経験を踏まえた、女性とは違った視点での介護も、案外効果的、ということでしょうか。男女の間で介護の知恵を交換し合えば、いいかもしれませんね。介護未経験者の浅知恵ですが。
上記引用では、男性介護者と地域コミュニティの問題も指摘されていました。これは別エントリで考えてみることにします。
]]>熱、そして闘う覚悟を感じました。2005年の小泉首相による「ガリレオ演説」も迫力がありましたが、これもスゴい。15分の時間を割ける方は、ぜひ見てみてください。
後半で彼の信念が披露されます。自民党が掲げるべき「旗」は何であるかということ。それは、経済を活性化させることで「豊かさ」を実現、その果実を国民に享受してもらうというもので、明確に自由主義の立場です(彼自身は「健全な保守主義」と言っていますが)。
そして、利権で成り立っていたこれまでの自民党の体質を「部族連合」と呼び、上記の理念に賛同する人を結集して近代的政党に生まれ変わらせるのだ、とも言っています。
言っていることのまっとうさと、演説の言葉の力強さに、圧倒されました。
河野太郎を選ばない(おそらくは谷垣氏が選ばれるのでしょう)ような自民党は、金輪際、支持できそうにないな、というのが率直な気持ちです。河野でなくて谷垣、ということは、現状の延長線上でしかやっていくつもりがない、という自民党の意思表示と受け取らざるを得ませんから。
ネットの一部では、「落選したら、河野やその同志は自民党を離れてみんなの党に合流すればいい」という意見があります。私も、それは悪くないアイデアと思います。ただ、今は選挙戦の最中。たとえ勝つ可能性が小さくても、自由主義の旗を掲げて闘っている河野太郎という人を応援したいと思います。
折しも、明日横浜で街頭演説会が行われるとのこと。決して近所ではありませんが、出向いて、拍手・声援を送りたいと思います。
]]>確かに、実態として「AにもBにも賛成」「AにもBにも反対」という人が多いとは思います。従ってそれを「Aに賛成の人は、多くの場合Bにも賛成だ」などと言うのなら、おかしなことはありません。ただ、「Aに賛成なら、Bにも賛成でなければならない」というのはどうかな、とかなり強い違和感を感じました。
元の発言をした人は、言うまでもなくAにもBにも賛成の人です。一方私は、Aについては条件付きながら賛成、Bについては断固反対の立場です。そのため、上記の言明に対して「ちょっと待てよ」と思ったのでしょう。何せ、私自身が「反証」なわけですから。
人が何かについて意見を持つについては、様々なきっかけや視点があり得ます。それを認めずに、Aという件とBという件、それも直接はつながらない件について、「首尾一貫していなければならない」などと言い切るのは、随分乱暴な姿勢であり、また思考の活力というものを軽んじた考え方だな、と感じたことでした。
]]>人々、すなわち消費者が、わがままで思いやりをなくして行くにつれて、サービス業など顧客と接する労働はますますキツいものとなり、いずれは「やってられない」ものとなるのではないか、ということです。
それにより、サービス業への労働供給が減り、賃金は上がるのに質の低い人材しか入ってこなくなる可能性があります。結果的にそれは、消費者の満足を下げることにつながり、ますます消費者とサービス提供者の摩擦が増える、と。
個別の企業レベルではサービス力の高さが今以上に「売り」になるという点でチャンスですが、社会全体としてみれば、ますます殺伐としたやりとりが増えるように思えてなりません。最終的には、人によるサービスというものが激減し、多くは機械化・自動化あるいはセルフサービス化するんじゃないでしょうか。
人間からサービスを受けることが一種の贅沢になる。これが我が日本における遠くない未来の現実だと思います。
]]>経済フォーカス:大切なものを測る尺度 GDPだけで豊かさは測れない JBpress(日本ビジネスプレス)
この問題、いろんなテーマが含まれていて、議論のネタとしては格好のものなんじゃないでしょうか。
さて上記の記事は参考程度にし、私は「GDPと幸福感」について、次のように考えます。
まず、GDPがあまりに低すぎたり、水準が高くても下り坂だと、幸福感は持ちにくい。これは厳然たる事実です。従って、「GDPと幸福感には何の関係もない」というのは暴論です。一方、GDPと幸福感がきれいな比例関係にあるかと言われれば、それもまた違うでしょう。
GDPが一定水準以上になれば、他の要因がむしろ幸福感を左右するようになるのだと思います。たとえば、自由な時間とか、隣人や同僚との良好な関係とか、人生を自分の力で切り開いている感覚とか。少なくとも、我が日本ではGDPをガンガン伸ばせばみんなが幸福になれる、なんてことは誰も思わないでしょう。
では、GDP以外にどんなことが幸福感を左右するのか。その点はいろいろ調査・研究してもらいたいものです。案外、少数の要素が決定的に重要だったりするかもしれませんよ。ただこの場合でも、数値化の限界、みたいなものはわきまえておいた方が良いと思います。以前「豊かさ指標」なるものが出されて不評を買いましたが、豊かさや幸福感といった複雑なものを点数で表そうとするのは、やはり無理がありますから。
最後に。記事中の
失業者は、収入の減少を考慮したうえでも、かなり低い点数をつける。失業は財布を直撃するだけでなく、もっと大きな影響を与えるのである。
という部分はとてもよくわかります。仕事のない状態、私も何度か経験していますから。仕事がないというのは、金の問題だけじゃない、空虚感やよるべなさを生むものなんですね。GDPについては「高ければ高いほどいい」とは言えませんが、失業率については「(インフレを誘発して持続不可能なレベルじゃない限り)低ければ低いほどいい」と言えるんじゃないでしょうか。
]]>私は、これには断固反対です。というか、実現不可能だと思っています。理由は、以下の5つ。
1.徴税回避が広がり、それが経済や社会をゆがめる
税率が100%となれば、特にお金持ちの人はあらゆる手段を駆使して徴税を回避しようとするでしょう。たとえば贈与とか、財産の名義書き換えとか。もちろん、さらなる規制により回避をある程度防ぐことはできるかもしれません。でもそれは制度をますます抑圧的にし、制度のバカバカしさを際立たせることになるでしょう。
ちなみに、親が早くから子供に財産を贈与しすぎると、子供の方は介護など老後の世話に冷淡になると言われています。情けない話ですが、それが人情っていうもんじゃないでしょうか。
2.結局、税収はそれほど伸びない
現状、相続される財産は年に80兆円程度と言われています。それがすべて税収になれば、国家財政にとっては莫大な収入です。けれど、上記の徴税回避、そして「税金で取られるくらいなら遣ってしまった方がまし」という考えで人々は今以上に資産を食い潰して亡くなるでしょうから、税収は期待ほど増えない、と考えるのが常識的です。
はっきりしたことは分かりませんが、フタを開けてみたら数兆円だった、なんてこともあり得るんじゃないでしょうか。もし税収自体が目的なら、むしろ課税ベースを広げた上で「広く浅く」取るのが、賢明です。そういう意味での相続税の課税強化なら、私は賛成です。
3.高齢化で、格差是正にはあまり役立たない
相続税100%を提唱する人は、階層間の格差是正を目的として考えているようです。でも社会の高齢化で、相続は80歳90歳の故人から、同年代の配偶者、または50歳60歳の子供に対して行われます。子供は既に自分の家計を持っており、仮に親が金持ちだとしたら、その恩恵を十分に活かしているでしょう。相続財産をリセットすることは、その弊害を正当化できるほどには格差是正に役立たないと考えます。
4.相続財産はすべてが金融資産ではないので、そもそも非現実的
現在でも、相続税の物納というのは少なくありません。相続税が100%となれば、もっと増えるでしょう。でもたとえば子がいない夫婦がいたとして、相続財産の大半が自宅と土地だったとします。夫が亡くなったあと、妻は自宅を国庫に納め、自分は残った財産で賃貸住宅か何かを確保する、ということになるんでしょうか。そんな残酷な制度が、成り立つはずがないじゃありませんか。
5.いかなる税目であれ、「税率100%」というのは圧政以外の何物でもない
ある意味で、これに尽きます。税率100%というのは、個人の財産に対する無限の侵害を認めるという点で、暴力的な政府を認めることと同義です。その恐ろしさをわからず、無邪気にこんなことを口にする人がいることには、寒気を覚えます。そして、自由を守るために命がけで闘わなければならない時が来るのかもしれない、とも。
海外では、相続税をゼロにしたり大幅に軽減したりするところも少なくないと聞きます。「相続税100%」などという議論が大真面目で語られる日本は、やはりどこか社会主義的なのかもしれません。
]]>感動するであろうことは予期していたのですが、期待以上でした。脚本も俳優の演技も素晴らしく、とっても味わい深い作品だったと思います。
変わり者の精神科医が、がんで余命幾ばくもない人から話を聞き、それを手紙にしたため、家族に渡す。まさに私が自由遺言で唱える「メッセージ」が具現化されているようでした。もちろん、本人が自ら筆を執れば、さらには生前から口で言っておけばいいのですが、なかなかそうも行かないこともあります。そんな時に、彼のような「手紙屋」は役に立つでしょう。遺言コンサルタントとしての私も、ああでありたいと思います。
なお、手紙は思い立ったときに読み直せる、というメリットがあります。しかも直筆であれば、なお書いた人のことが偲ばれて、味わいは何倍にも増します。「メッセージ」は、ぜひ手書きで書くべきですね。ワープロを使うんじゃなく。
ドラマに登場したのは2人・2家族のケースで、一つは口べたな料理人が妻への愛情を吐露したもの、もう一つはなんちゃってプロサーファーが女性遍歴を妻に打ち明けたものでした。前者は画に描いたような「いい話」なんですが、後者はそうじゃありません。ただ、それを読んだ妻が「知ってました」と全く動じなかったことで、全体としては美談になったと思います。
不都合な事実の告白については、賛否が分かれると思います。確かに、胸にしまったまま逝くのも、思いやりでしょう。私は、真摯な姿勢で打ち明ければ、家族は、仮に最初聞かされた時は傷付き、恨んでも、いずれは許せるようになるんじゃないかと思います。人生の根幹に関わる重大な真実なら、打ち明けた方がいいんじゃないでしょうか。劇中でも誰かが言っていましたが、他の人から言われて知れば、もっと傷付くでしょうし。
さて「死と手紙」と言えば、ライトノベルでのちにアニメ化もされた「シゴフミ」を思い出します。あちらも、改めて鑑賞してみようと思います。あと、上のつぶやきにあるように、飯島夏樹氏がらみでは、本あり、ドキュメンタリーあり、映画ありで、どれも見る価値があります。
]]>Hideki Nagaoka(@yuigon_info) - Twilog
達人とまでは行きませんが、それなりに使い込んでいる方だと思います。参考になるかどうか分かりませんが、現状のTwitterの使い方をまとめてみます。
1.つぶやき
これが用途としてはメインですね。当然ですが。内容的には、あえて分類すれば次の3種類になるでしょうか。
2.フィードを流す
件数としては、これが一番多いです。具体的には、
いずれも、Twitterfeedを使っています。最短でも30分に一度しか更新できないのは不満ですが、プレフィックス、つまりフィードの頭に"[ブックマーク]"といった任意の文字を入れ込むことができるのは、重宝しています。
3.引用
これは2種類ありまして、他人のTwitterのつぶやきはReTweet、それ以外は、tumblrまたはbit.lyを使っています。ReTweetについてはいろいろ興味深い問題をはらんでいるので、別途独立したエントリで考えてみます。
あくまで上記は、自分がつぶやく側についてです。タイムラインの活用ということで言えば、話はもっと広がります。それはまたの機会に。
個人的には、外部に多様なライフログ的サービスがあって、その最終的というか二次的な受け入れ先がTwitter、というのが理想かと思います。たとえば私の場合だと、「アイデア」「観たいテレビ番組」「食べた酒の肴」なんかはそれ専用の場所に記録しておき、一覧したり分析したりしたいわけです。書籍に関しては、その理想に近いところまできているかもしれません。
つまり、いろんなWebサービス間で情報が流通する、その中核としてのTwitter、というのをイメージしています。この理想、実現するのは案外遠くない先のような気がします。
]]>夫婦別姓導入へ…政府、来年にも民法改正案 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
あくまで選択制ですから、これはいいんじゃないかと思います。必要のある夫婦だけが、別姓にすれば良い。当初は、選択するカップルは数パーセントにとどまるんじゃないでしょうか。10年20年のスパンで考えると、多数派になるような気もしますが。
問題、というか考えるべきは子供の姓を決めるルール。いろんな案があるようですが、子供が成人したら簡単な届け出だけでもう片方の親の姓に変更できる、ということにしておけば、シンプルで一番無難なルールがいいのではないかと思います。たとえば、同性の親と同じ姓になる、とか。それぞれの子供について、出生時に親が決められる、とか。
さて民主党といえば、党内の一部に戸籍制度廃止を目論む人たちがいるそうです。これについては、そんなことを真面目に提唱する人がいること自体、最近知りました。
親子関係や親族関係を公的に認証できなくなると、相続などに明らかに不便になると思われるのですが、それを上回るメリットはあるのでしょうか。仮に現在の戸籍制度に不都合があるとして、それは運用の改善では解消できないものなのでしょうか。よくわかりません。現時点では、「ちょっと待て」という感じで反対と言わざるを得ません。
]]>今日の午前中に注文して、夕方に受け取り。カード決済なので、お金の受け渡しはありません。それなりに「使える」という感じを持ったので、今後は定期的に利用していこうと思いました。
送料について
ネックとなるのは、送料がかかるということ。イトーヨーカドーの場合、購入額が5,000円未満だと315円かかります(来月末までの期間限定)。
Amazonなどで1,500円以上は送料無料というのに慣れている身からすると、5,000円というハードルは結構高い気がします。これが2,000~3,000円くらいに緩和されると、週に一度くらいの頻度で利用したいのですが。現状では、せいぜい二週間に一度か、それ以下ですね。
ネットスーパー向きなもの
まぁこれはネットスーパーを利用する動機によるのでしょうが、私の場合は、飲料やお酒など重量がかさばるもの、トイレットペーパーなど銘柄にこだわらない日用品は、ネットスーパー向きな感じがしました。
一方、肉や野菜など生鮮品は、近所のスーパーでモノを見て選びたいと思います。あと、化粧品など嗜好性の強いものも、店頭で選びたいものです。冷凍食品については、時折半額セールをやっているようなので、いずれ買ってみるかもしれません。
こんな機能があれば・・・
上記のような利用目的からして、家の在庫がなくなりそうなことに気付いたら、買い物メモに書くような感じで気軽に「次に買うものリスト」に登録できたらいいですね。あと、自分が買うカテゴリの商品で特売があれば、それも教えてほしいかも。
これからのお買い物
以前、ネットスーパーを利用している人が「もうリアルで買い物に行くことはほとんどなくなるかも」といったことを書いていました。私の場合は、さすがにそこまでは行きません。従来通り、近所のスーパーやコンビニも利用し続けるでしょう。ただ、機能面で改善・改良が図られていき、送料のハードルがいくらか下がってくれれば、日常の買い物のうちかなりの割合がネットスーパーに置き換わっても不思議じゃないな、と感じたことでした。
未体験の人は、一度試してみては?
]]>がんを生きる:/46 死をみつめる/下 闘病に寄り添い、学び伝え /大阪 - 毎日jp(毎日新聞)
そもそも、こういう取り組み自体が素晴らしいと思います。そのことを確認した上で、注文というか要望というか。
まず、ノウハウというと薄っぺらですが、授業の体験談や気付きを、教員の間で共有していただきたいですね。で、差し支えないものは一般の大人向けにも公開してもらいたい。
もう一つ。教育というのは多かれ少なかれそういう側面がありますが、死についてはなおさら、学校で教わったことを自分で活かせて初めて、「身に付いた」と言えます。そのための訓練というか下準備につながるものであってほしいですね。
具体的には、自分の人生と死にどう向き合うか、身近な他者の死をどう受け止めるか。こういったことについての予備知識や心構えを授けるものであってほしい。まぁ最終的には、生徒各人が自分の頭と心でぶつかるしかありませんが。
こうした取り組みが、死をめぐる文化の豊かさや深まりを増すことにつながり、ひいては世の中の成熟に資するであろうことは、疑いありません。望むらくは、瀕死の病人を「生きた教材」なんて感じで安直に利用するようなことは、やめてもらいたいものです。
]]>河野太郎氏の勝利を希望し、行動したり意見表明していただけに、この結果は残念です。と同時に、私の中では自民党は支持政党候補として「圏外」へ消えて行きました。
かねてより民主党の政策には根本的に反対でしたので、これで二大政党が揃って「支持できない」政党になってしまったわけです。深い絶望感を噛みしめています・・・。私自身、それほど過激な思想の持ち主とは思っていないのですが、そんな私ですら支持できる大政党がない、と。かろうじて期待感を持てるのは、現状ではみんなの党くらいでしょうか。
別に「政府を民営化しろ」とか過激なことは求めないので、普通の自由主義を主張する政党が出てきて欲しいものです。河野総裁が実現すれば、自民党にもう一度期待してみるつもりになれたかもしれませんが、今は民主党に対抗できる新興自由主義政党の勃興を待ち望む気持ちが強いです。可能性があるのは、みんなの党か、それとも、中田宏氏や山田宏氏らの『よい国つくろう!』日本国民会議か。
折しも、ドイツでは自由民主党躍進の報が。うらやましいですな。
]]>アメリカで公開されるや、各都市で大ヒットを記録し、06年度アカデミー賞でも本命視される環境ドキュメンタリー。民主党クリントン政権下で米合衆国副大統領を務めたアル・ゴアによる地球温暖化問題についてのスライド講演を追っている。監督は「24」や「ER緊急救命室」などの人気TVドラマの演出を手がけてきたデイビス・グッゲンハイム。地球温暖化の啓発映画というよりは、アル・ゴアという「宣教師」のプロモーション・ビデオといった感じが強いです。彼が大統領選でジョージ・W・ブッシュに破れたのは理由のないこととは思いませんが、この映画を観ると、彼の知的さ、誠実さ、そしてプレゼンテーションの巧さは、十分に伝わって来ます。政治家としては最後に挫折しましたが、環境活動家としてはカリスマであることは疑いありません。 少なくとも、日本ではこれだけのレベルのプレゼンにお目に掛かることはまずありませんので、プレゼンの教材として、とてもいい映画じゃないかと思います。もっとも、大切なのは、小手先のテクニック以前に、自分の訴える内容にどれだけ「命がけ」になれるか、ということですが。そして、間違いなくゴアは、温暖化阻止に人生を懸けているように見えました。]]>
私のように自助を強調するリバタリアンでも、一切の公助が必要ない、と言っている人は稀です。要は、程度について、意見が分かれるんですね。ただ、個人的には、自助・公的と並んで、共助も大事だと考えます。いや、もっと言うと、公助は自助と共助が及ばないところへの最小限のものであるべき、と考えます。その点で、安易に「セーフティ・ネットって大事だよね。」といったことを口にする人には、反発を覚えます。
さてその「共助」も、あえて分類すれば2種類あります。家族など顔見知りの間での共助と、NPOなど組織による共助です。後者の役割がこれからますます重要になるのはもちろんですが、前者も見直し・再構築が求められます。人間関係を「安全保障」の観点から構築・維持するようになるでしょうね。ま、あまり打算が前面に出すぎると、その関係は味気ないものになってしましますが。
共助には、まだまだ広がり、深まっていく可能性があります。グラミン銀行に代表されるようなマイクロクレジットだって、成功を収めるまでは非常識な金融だったんです。世の中には、発掘されていない共助の仕組みややり方が、まだまだたくさんあるはず。それを見きわめていないうちから、税金を元手に公務員がやる公助に期待するなんて、愚かとしか言いようがありません。
もちろん、「自己責任」という言葉を毛嫌いし、自助の大切さすら認めない、理解できないような輩は、論外ですけどね。
]]>正直言って、Web歴が長く、いろんなサイトやサービスを利用してきた私でも、これには戸惑いました。で、以下は自分の頭を整理する意味も含めて、まとめ。
ReTweetって何?
まず、Twitterには「返信」と言える機能が3つあります。Reply、ReTweet、DM(ダイレクトメッセージ)です。最後のDMは親展とでもいうか、第三者のタイムラインに現れないやりとりですので、理解は容易。ややこしいのは、前二者の違いです。これについては、下記の記事がイラスト入りでわかりやすく教えてくれます。
想造ノート: Twitterにおける3つの返信方法、@とRTとDの違いをイメージ図にしてみた。
ReTweetを利用すると、引用元本人の返信通知画面に表示し、自分をフォローしているユーザーのTLにも流れます。
このとき、自分をフォローしている人であれば、引用元ユーザーが共通の友人でなくてもTLに流れます。
イメージとしては、ちょっと重要な情報をほかのユーザーに大きな声で伝える感じです。
ReTweetの使い方
上記を踏まえると、ReTweetの機能は大抵、次のどれかに分類できます。
1番目と2番目はすぐに理解できるとおもいますが、3番目は体感しないと「何それ?」という感じかもしれませんね。もちろん、一つのReTweetが上記のうち複数の機能を兼ねていることは大いにあり得ますし、むしろそれが常態でしょうが。
ReTweetの問題点
次のブログで、ReTweetの課題が4つ挙げられています。
TwitterのRetweet(RT)について考えてみる - Nothing ventured, nothing gained.
項目名だけ引用すると、個人的には、4.はほとんど問題じゃないし、2.も大した問題ではないと思います。一方、1.は結構、3.はかなり問題だと思います。TwitterはReTweet機能の公式サポートを準備しているようですので、「オリジナルのつぶやきへのリンクがない」という点が解消されるのかどうか、期待を持って見守りたいと思います。
ともあれ、ReTweetを使うようになってまた一つTwitterの面白さに目覚めたのは事実ですし、これからも目に留まったつぶやきをどんどんReTweetして行こうと思います。
ちなみに昨日は、こんなことがありました。 自分がおすすめしたものが他人の興味を惹く。これって、なかなか快感ですよ。 ]]>時事ドットコム:女性の「再婚禁止」短縮を検討=相続差別撤廃も-民法改正で法相
そして、こちらが遺言ニュースでの記事。
【ニュース】千葉景子法相が民法改正に意欲示す | 遺言ニュース
現在の民法第900条第4項は、次のように定めています。
子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。
問題になっているのは、「ただし」以下で、いわゆる非嫡出子の法定相続分を嫡出子の半分としています。このことを「法の下の平等」に反する、という人たちがいるわけです。
この件については、1995年の最高裁で一応の合憲判決が出た(反対意見が5人と、決して少なくありませんでした)ものの、翌年、法制審議会が改正を提言しています。国際的な動向というか圧力からしても、改正が求められていたのは間違いありません。改正を求める人たちからすれば、政権交代でチャンスがめぐってきた、というわけです。
上記「遺言ニュース」記事にも書きましたが、この件だけを取ってみれば、強硬に反対する人もおらず、案外すんなり通りそうな気がします。頓挫するとすれば、夫婦別姓や再婚禁止期間の件が紛糾して、いわば道連れになるケースでしょうね。
私自身も、改正するのであれば特に反対はしません。他方で、現状を特に不都合とも思いません。やるならやっていいよ、といったスタンスです。上記最高裁も指摘したように、親が遺言すれば法定相続分は問題となりません。関わってくるのは遺留分侵害のときくらいですが、嫡出子の遺留分を侵害するくらい非嫡出子に手厚く相続させるケースがそうたくさんあるとも思えません。
やるなら、
といった、もっと本質的な改正をやってもらいたいものです。
ちなみに改正論者たちは、非嫡出子(彼らの言う「婚外子」)差別をなくすことを訴えていますが、仮に法律から嫡出子と非嫡出子の区別を除いたとしても、社会的な差別はなくならないと思いますよ。
]]>毎年、毒気のないニュースとして報じられるものですが、ここ数年は募金額の減少も必ず紹介されるようになっています。
asahi.com(朝日新聞社):私の募金、どう使われたの? 赤い羽根サイトで公開 - 社会
募金総額は96年度以降、減少傾向で、08年度は約208億円。
個人的には、赤い羽根がダメというより、他の寄付・募金機会が充実してきた中で、相対的に存在感が低下した面が大きいのでは、という印象を持っています。
あと、「何に使われているのか分からない」という不信感は、いかがわしい街頭募金と一緒くたにされ、割を食っている面もありそうです。
さてサイト「はねっと」を見ると、確かにいろんな用途に使われています。その多様性が共同募金の特徴であり、売りでもあるんのでしょうが、これからの意識の高い寄付者は、自分の思い入れのある特定分野にピンポイントで寄付することを好むのではないでしょうか。言葉は悪いですがどんぶり勘定的な共同募金のやり方は、時代のニーズに取り残されて行っている気がします。
とはいえ年間208億円というのはかなりの実績。緩やかに衰退していけばいいんじゃないでしょうか。
]]>ブログでも「Twitter始めました」と報告されているのですが、私はそれ以前に、「葬儀」で検索している中から同氏のアカウントを発見、すぐにフォローさせていただきました。
で、社長がブログでおっしゃっているのが、「全然ピンと来ない」ということ。私もTwitter歴は一年半ほどですが、最初の一年くらいはあまり活用していなかったので、何となくわかります。
で、以下は一般論ながら、Twitter初心者の方へのアドバイス。
まずは、日常的につぶやこう
ブログだと1日に1件記事を書けばまあまあですが、Twitterだと、1日に数十件つぶやくのが普通です。ブログネタにはならないようなことも、どんどん気軽につぶやきましょう。
大量につぶやくためには、TwitterのWebページから投稿するのではなく、各種あるTwitterクライアントのソフトを導入したり、ケータイからも投稿したりすると良いと思います。
ちなみに私は、当初「Twit」というクライアントを愛用していましたが、今は「HootSuite」というWebサービスを利用しています。Google Chromeブラウザで表示させているので、実質的に独立したアプリケーションのように使用しています。
フォロー相手を増やそう
フォロー相手が増えないと、タイムラインが躍動しません。「Twitterの面白さがわかるのは、フォロー相手が100人を超えてから」と言われますが、故のないことではありません。
誰をフォローするか、ですが、まずはボットと言われる情報提供のアカウントをフォロー、次に関心のあるキーワードで検索して興味深いこと言っている人をフォロー、そしてフォロー相手が増えてきたら、自分がフォローしている人がフォローしている人をフォロー、というのがいいでしょう。
ReTweetをしてみよう
これについては、以前に書きました。ただ自分のつぶやきを投稿しているだけだと、虚空に向かってしゃべっているようなむなしさがあるものですが、他の人とアクティブに絡むようになると、俄然Twitterが面白く感じられてくると思います。
ブログと相乗効果
Twitterをやるくらいの人は、すでにブログを持っていることが多いでしょう。まずはブログ未満のネタをTwitterでつぶやくといいと思いますが、慣れてくれば、ブログのアイデアメモとして、あるいはブログのネタ元としてもTwitterは使えます。あるいは、他人のブログへのいわば「コメント欄」としても。ブログとTwitterにはそれぞれ持ち味がありますので、うまく使い分けられるようになれば、ますますハマることでしょう。
以上です。個人的には、葬儀屋さんや葬送関連NPOの人、終末期医療の医師や看護師さんがTwitterをもっともっと使うようになれば、と願っています。
]]>asahi.com(朝日新聞社):非嫡出子の相続差別、違憲の意見 最高裁、結論は合憲 - 社会
遺言ニュースでの第一報は、こちら。
【裁判】非嫡出子の「相続差別」は合憲と最高裁が改めて判断示す
Twitter上での反応を見る限りでは、「最高裁はおかしい。今どき相続差別なんて時代遅れだ」といった意見が多いです。これから、ブログでの反応も見てみようと思っていますが、たぶん7~8割は合憲判決に批判的でしょう。
私自身は従来、「民法改正して非嫡出子の相続分も嫡出子と同等にするのなら、反対はしないよ」というスタンスだったのですが、ここ数日この件について考えてみて、むしろ反対に近くなりました。今のままでいいじゃんか、という気持ちです。
最大の理由は、実際に嫡出子と非嫡出子で遺産分割するとなったとき、仮に民法が相続分を平等に定めていたとして、嫡出子の側はそれで納得できるかどうか、大いに疑問だということです。極端な例で言えば、故人が亡くなるまで子や妻が「愛人の子」の存在を知らなかった、ということすらあり得ます。そうでなくても、愛人とその子は日陰者の存在で、同等の遺産分与を求めるのはあつかましい、というのが普通の感覚なのではないでしょうか。
仮に故人が非嫡出子の分け前を多くしてあげたいなら、遺言すれば済むこと。「相続差別はおかしい」というのは、法に正義とか理想の実現を求めようとするもので、お門違いと言わざるを得ません。ちなみに声高に平等を求める人たちは、一夫一婦制を軽視、ないし敵視しているようにも見受けられます。この点については、別エントリで考えてみます。
さて、より根本的な問題として、そもそも民法が相続分を決めていること自体、どうなのよ、という点があります。家族の状況はそれぞれなのに、法の定める相続分はきれいな分数。それほど相続の知識のない人でも「子の相続分は平等」ということは知っており、それを権利ととらえているフシがあります。相続トラブルの多くは、この思い込みの権利と実態との乖離、さらには相続人間の認識ギャップによって生まれるものだと思います。
ここは一つ、
という体系に改めてはどうでしょうか。調停・審判に持ち込まれるケースは今より増えるかもしれませんが、一つは遺言作成が増えることにより、もう一つは家族内で争いたくないという思惑があることにより、激増することはないんじゃないかと思います。
非嫡出子の相続分は、この方式で行くと、平均すれば嫡出子の3分の1程度になるんじゃないでしょうか。嫡出子と同等になることがありえないのはもちろん、現民法の2分の1をも下回るであろうことは、容易に想像できます。
法は、社会生活を円滑に進めるための道具に過ぎない、と、プラグマティックに考えるべきだと思います。
]]>なので、これには少し反論しておきたい。
実名推進派は人の気持ちがわからない人が多い。 : ひろゆき@オープンSNS
敵対する意見の持ち主の人格をあげつらうのは、議論のマナーとしていかがなものかと思いますが、それはさておき。会社員が実名をさらしづらい、というのは、わかります。
会社から明文で禁止されている場合はもとより、実名をさらすことで業務上不利益になったり、単に仕事中は仮面をかぶっているので「素の自分」を出すのが恥ずかしいなど、事情は様々でしょう。
ただ、会社員当人にとっても、会社にとっても、実名をさらすことは不利益ばかりでしょうか?ネットの世界で一目置かれることで人脈が広がったり、有益な情報にアクセスできたりすることがないでしょうか。また会社も、イメージアップにつながり、ひいては商売やリクルーティングに有利になることがあるんじゃないでしょうか。
要は、「会社員が実名さらせるわけないだろ」というのは、視野の狭い思い込みだと思います。
一方、匿名には重大な問題点があります。無責任さを助長したり、他者への攻撃が過激化したりといったことです。内部告発や本音の吐露など、匿名ならではのケースもあるでしょうが、やはり原則は実名であるべきです。
ちなみに上記の記事も、ひろゆきの手によるものとわからず、はてな匿名ダイアリーの記事なんかだったら、「ふーん」で終わりだったでしょう。
実名はもとより、いろんな個人情報をどんどんさらす。そのことにより、ネット上でいろんな縁を得ることができ、ひいてはネットの可能性を享受する機会が増える。そういうものだと思います。義務化などは論外ですが、ネットでの実名さらしを会社員含めて全ての人にすすめたいですね。
]]>電子ブックリーダ『Kindle』が日本から買えるように - 米Amazon.com | ネット | マイコミジャーナル
まだ英語書籍しか買えず、日本語コンテンツは提供されないようなので、「黒船襲来!」と騒ぐことのほどではありません。当面購入者は、学者、一部のビジネスマン、洋書好きな読書家など、一部に限られるでしょう。
でもモノが使われるようになると、さらに「早く日本語コンテンツを出せ」という圧力が強まるのは確実です。日本語コンテンツの提供開始は時間の問題になったと見るべきで、その意味で今回の件は一大転機であることは間違いありません。
ちょっと前、こんな記事を読みました。
まだまだ利便性という点では、紙の書籍を凌駕するには至っていないようです。改良の余地は、大ありですね。使う側の「慣れ」の問題もあるでしょうが。
個人的には、書籍のデジタル化には大いに期待しています。紙の書籍は、かさばることと検索性に劣ることが弱点ですが、デジタル化はそれを克服してくれます。コンテンツの価格も、従来よりは値下がりするでしょう、きっと。ネットを通じてダウンロードすることで、即時に入手できるのも利点です。
あとは、デジタル化ならではの付加価値を付けることができて、「紙よりイイ!」って思わせてくれれば、意外と短期間に書籍の相当部分がデジタルに置き換わるんじゃないかと思います。自分としては、それを見届けて死にたいものです。
ちなみに電子書籍リーダー分野では、SONYもアメリカで主要なプレイヤーになっています。ぜひ同社にも、日本での販売を再開して、Amazonとともに市場を盛り上げていってほしいですね。
]]>ウィニー開発者に逆転無罪、「著作権侵害勧めず」…大阪高裁 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
小倉裁判長はウィニーを「有用であり、また著作権侵害にも用いられる価値中立のソフト」と位置づけ、「ウィニーの現実の利用状況を把握するのは困難で、どの程度の利用状況があればほう助犯が成立するのか判然としない」などと指摘。さらに、「著作権侵害行為に使われることを認識しているだけでは足りず、侵害行為をするようネット上で勧めてソフトを提供する場合に成立する」との新しい基準を示した。
この基準に照らし、金子被告がウィニーを開発・公開した際に「違法なファイルをやり取りしないようお願いします」などと記していたことなどを挙げ、「著作権侵害のみに使用させるようネット上で勧めて、ウィニーを提供したとは認められない」と判断した。
金子勇被告は私と同い年ですが、プログラマーとしてというかコンピュータサイエンスの研究者として、なかなか優秀な方のようです。
本件については、幇助の罪を認めた一審判決の方に共感できます。著作権のあり方が現状のままでいいのか、という議論はありえますし、私もいいとは思いません。
ただ、Winnyによってソフトウェアやコンテンツが大量に複製され、あるいはタダで利用できる状態になったのはまぎれもない事実です。開発者が罪に問われるのは、極度に犯罪の範囲を広げるものだとは思いません。もちろん、たとえ有罪であっても罰金刑で十分とは思いますが。
この件については、開発者が逮捕された2004年にもブログで取り上げました。
今ココニ在ル未来:Winnyの作者、逮捕 - livedoor Blog(ブログ)
Winnyのようなファイル共有ソフトによって著作物をタダで手に入れるのは、やはり良くありません。一方、著作権者の方も、現状にあぐらをかき、消費者の不満や怒りに耳を貸さないでいると、政権から引きずり下ろされた自民党みたいなことになっちゃいますよ。
]]>間瀬元朗の同名コミックの映画化。1000人に1人の確率で若者を選び命を奪う「国家繁栄維持法」が存在する世界では、国民の生命価値を高めることで社会の生産性を向上できると信じられている。政府より発行される死亡予告証は通称「逝紙(イキガミ)」と呼ばれ、それを受け取った者は24時間以内に死ぬ。厚生保険省の国家公務員である藤本(松田)はイキガミの配達職務を名誉ある仕事として遂行しようとするが……。
SFチックな筋書きなのでもっと寒々しい映画と思っていましたが、この合理的かもしれないが不条理な制度によって苦しむ人々が丹念に描かれていて、かなりの傑作映画だと思いました。終盤は、感動で泣いてしまうところもありましたし。
「赤紙」と「イキガミ」、「治安維持法」と「国家繁栄維持法」など、明らかに戦前・戦中の我が国を風刺した用語やセリフが幾度も出てきました。人によっては「国家権力によって個人の生命が左右される理不尽さ」という点で両者の共通点を感じ取ったかもしれませんが、私は上記のような類似とは別に、テンションの違いみたいなものを思わずにはいられませんでした。戦前・戦中の我が国は、もっと狂信的というか好戦的というか、「熱かった」と思います。まぁ今の若者だと、類似の方もわからないかも・・・。
さて「国家繁栄維持法」ですが、もとより人権思想の根付いた先進国で、こんな残酷な制度が導入される見込みはありません。さしあたりは。何より、「生命の価値」を訴えるなら、事故や事件、そして自殺で亡くなった人やその遺族の話を聞けば、十分じゃないでしょうか。あと、死刑囚とか。
ちなみに倫理学の分野では、臓器くじという思考実験が提案されているそうです。議論のネタとしては、面白いかもしれません。
最後に蛇足。イキガミを受け取る人物の妹として、成海璃子が出ていました。ちょっと目を瞠るような美しさでした。撮影当時15歳とは、驚きです。。。
]]>MSN産経ニュースが受賞理由声明を掲載しているので、転載します。
【ノーベル賞】オバマ氏の受賞理由発表全文 非核化や環境「世界を先導」 - MSN産経ニュース
ノルウェー・ノーベル賞委員会は、2009年のノーベル平和賞を、国際外交と諸民族の協力関係の強化のため比類なき努力をしたバラク・オバマ大統領に授与することを決定した。委員会は、核兵器のない世界に向けたオバマ氏のビジョンと働きに特別な重要性があることを認める。
オバマ氏は大統領として、国際政治に新たな環境を生み出した。国連や他の国際機関の役割を重視した多国間外交が主流の位置を取り戻した。たとえもっとも困難な国際紛争であっても、対話と交渉が解決の手段として選択された。
核兵器のない世界というビジョンは、軍縮と軍備管理の交渉を強力に後押しした。オバマ氏の先導のおかげで、米国はいま、世界が直面する大きな気候問題に対処する上でより建設的な役割を果たしている。民主主義と人権はより強固となる。
オバマ氏の様に世界の注目を捕らえ、人々によりよき未来への希望を与えた人は、ごくまれにしかいない。彼の外交姿勢の基本には、世界を先導する者は、世界の大半の人々が共有できる価値観と心構えを持って臨まねばならないとの観念がある。
108年間にわたって、ノルウェー・ノーベル賞委員会は、まさにこうした国際政策を奨励するよう努めてきており、そうした態度において、オバマ氏はいま、世界の主要なスポークスマンである。委員会は「いまこそ、地球規模の課題に地球規模で対応するため、われわれ全員が責任を分かち合うときがきた」とのオバマ氏の訴えを支持する。
どう考えても、実績というよりは姿勢やビジョンに対する顕彰ですね。演説に感動させられたということで、拍手代わりでもあるかな。
もともとノーベル平和賞の政治性、あるいは党派性はよく知られていますが、これほど露骨だったのも、珍しいんじゃないでしょうか。これで例えば、オバマが在任中に新たに戦争を仕掛けるとか、4年間が「失政」と総括されるようになれば、ノーベル平和賞の権威もさらに低下します。ノーベル平和賞委員会は、いわば「賭け」をしたんですね。おそらくは、平和賞授与が自分たちの賭けの勝率を上げるだろう、と計算しつつ。
個人的には、黒人として大統領に上りつめたことで、彼は既にかなりの歴史的役割を果たしたと思います。今後は、「ノーベル平和賞を受賞した大統領」として、その行動や演説にもさらに箔が付くことでしょうね。私自身は、彼のビジョンにはほとんど共感するところがないのですが。
]]>Webを流通する情報は、単に「文字の量」としてとらえると、ますます増大しています。情報爆発と表しても、大げさじゃないくらい。
個人的には、情報を2つのカラムに集約できればと思っている。ひとつはフォローしている人のメッセージが表示されるもの(標準的なもの)で、もうひとつは注意を払うべき、興味深いメッセージが表示されるものだ。この2つに集約できるのなら、とても便利になる。
自分なりに、作戦を考えてみました。私も、ネット上の情報の海に溺れつつあるので。
「関心」「専門」を、ある程度絞り込む
世の中のありとあらゆることに通じていようったって、それは無理。やはりここにおいても「選択と集中」が鉄則でしょう。
役に立たないソースはどんどん切り捨てる
たとえば新たにフィードを購読するとか、Twitterで誰かをフォローするとか。加えるのは簡単ですが、削る・減らすのは案外しないものです。モノ同様、「いつか役に立つかも」という淡い期待は捨てて、非常に切り捨てていくべきです。定期的に、ソースを整理する時間を取るのもいいかもしれません。
「まとめ」をうまく活用する
時間と労力の節約のために、お金を払ってでも「まとめ」情報を手に入れるようにし、自分が一次情報に触れるのは、専門の中でも核心的なところ、あるいは「まとめ」が及ばない部分に限るべきです。
「遊び」をどこかに持っておく
上記3つは効率化の方策ですが、そればかりだと視野が狭くなるおそれがあります。一方で効率化をどんどん推し進めるからこそ、どこかに遊びを持っていたいものです。趣味的な第二の専門を持つとか。
将来的には、テクノロジーの進歩によって、情報収集の効率化が情報量の増大を上回るようになるかもしれません。つまり、より短時間で質の高い情報を得られるようになる、と。でもそれまでは、我々各人が工夫するしかないですね。情報を軽視するというのも選択としてはあり得ますが、それは確実に滅びの道です。
]]>「南北問題」とはかつて、地球レベルでの地域の問題でした。豊かな国は西欧や北米など北半球の高緯度に集中し、赤道以南の国々は総じて貧しい、と。
でも今後は、国ごとの一人当たりGDPはかなり接近していくことが予想されます。そして、いわゆる新興国の中間層より、旧先進国の貧困層の方がずっと貧しい、なんてことが当たり前になるでしょう。
要は、これまでは「地域」が貧しさ・豊かさを決める決定的な要因だったのが、今後はそれぞれの国・地域に明確な階層差ができあがり、ライフスタイルや嗜好において、同じ地域だけど異なる階層の間より、地域は違っても同一レベルの階層の間の方が、より似通ったものになるでしょう。領域は限られますが、近世までのヨーロッパでは、国内の均一性よりも、貴族同士、農民同士の方が共通性が大きかったと思われます。それがほぼ全世界的規模で実現すると想像してみてください。
こうした大きい流れがある中では、格差是正を目指してとられる様々な施策は、仮に格差を減らすことができたとしても、それは全体の豊かさを押し下げることでしか、実現できそうにありません。
我々が目指すべきはむしろ、国内で上位階層、中間層に属する人の割合を少しでも増やすことじゃないでしょうか。詳しくは追って考えていきますが、公教育が充実しているか、モノや人の流れが海外に開かれているか、ビジネスを促進する環境があるか、といったことがポイントになりそうです。できれば、税金も安い方がいい。
グローバル化の進む時代、各国はいわば善政競争をしています。それに敗れれば、国がどんどん貧しくなり、結果的に国内の貧困層の割合が高くなるでしょう。今の我が国がそちらに向かっている気がしてなりません。
]]>でも、その中で、素晴らしい宝物を見つけました
私が小さい頃に、父がどこかの古本屋さんで見つけて買いこんできて、「面白いで」と薦めてくれ、胸躍らせて読んだ、講談社発行の『少年講談全集』です。
全部で24冊あります。
買い与えてくれたのではなく、あくまでも父の本だったので、父がしまいこんでいたのです。
何故か、私はこの本をどこかに寄付したと思い込んでいました。
それが、父の書庫の本棚の奥から出てきたのですw(@@)w本そのものは、どれほど価値があるか、全くの反故なのかはわかりませんが、私にとっては、時代劇好きになったきっかけの本で、この本がなければ現在の私はいなかったかもと言うほどの本です
正に宝物です
父が私に残してくれたものはいっぱいあります
形のあるもの、ないもの…。
その形のあるものの中で、もっとも楽しく嬉しい遺産です
中は黄ばむどころじゃなくて真ッ黄ッ黄の染みだらけですが…子供向けの本なので、フリガナもちゃんとふってあるし、子供(お姉ちゃん)にも薦めて見よっかな?
と言うか、自分でも読み直してみたいな
今知ったのですが、Windows Live Writerだと、絵文字のコピペもできちゃうんですね。。。
それはさておき、遺品を通じて、父親とのつながり、そして自分の精神的来歴を思い起こす。感慨は並々ならぬものがあるでしょうね。想像しかできませんが。「形のあるものの中で、もっとも楽しく嬉しい遺産です」という言葉、実感が感じられます。
ブログ筆者さんも書いているように、この「時代劇好き」をさらに次の世代にも伝えて行けたら、とても素敵だと思います。もちろん、上記のブログ記事自体も、貴重な遺産になるでしょうね。
]]>現実は、そうでしょう。ただ、それに甘んじていると、その地域はさらに衰退するのが必定で、消滅のおそれすらあります。
郊外や幹線道路沿線に大型ショッピングセンターや全国資本のチェーン店があってそこに買い物に行くのが日常、なんていうのは現役世代の人にはいいかもしれませんが、高齢者には負担・苦痛です。また、好奇心旺盛な若者も、そんな退屈な街は抜け出したいと思うでしょう。
目指すべきは、コンパクト・シティ。個性的な店が軒を連ね、人々の交流が盛ん。職場と住居も近接している。それが、高齢化し、女性が活躍する社会での持続可能な中小都市のあり方に間違いありません。でなければ、都心の空洞化とともにまちが衰え、ついには人口流出が加速度的に進行していくことになるでしょう。
「クルマがないと生活できない」のが現実にしても、そこから脱却しようとしない・脱却できない街は、ますます寂れる一方なのです。つまり、未来がない。もちろん「脱却」は簡単なことではありません。住まいの問題や交通の問題などについて、様々な改革や実験が必要です。そうしたことに前向きに取り組めるかどうか。そのこと自体、各都市の活力の大きなバロメーターです。
運転免許を持たない私は、「クルマがないと生活できない」街には住めません。住もうとも思いません。そして今後、そういう人は増えていくと思います。
]]>それを見た途端、「それ違うよ」と心の中でツッこんでしまいました。以下は、政治の役割ということについての私の考えです。
まず、社会的弱者への対応(救済と言ってもいいでしょう)は、政治の唯一の役割でないのはもちろん、最大の役割ですらありません。それはむしろ、NPOや行政の役割でしょう。
福祉はまず自助が基本で、それが足りない時に共助、さらには公助が求められます。社会的弱者は確かに自助しきれないでしょうから、共助、さらには公助が出て行くのは構いません。ただその場合の公助は、地域の行政であって政治といったものではありません。
では政治の一番の役割は何か。それは、社会を構成する個々人や組織が幸福や利益を追求するのを奨励し、社会全体として最大の福利を生み出すようにすることです。最小のコスト、最小の介入で。具体的には、悪や負となることを抑制し、善やプラスになることを増進すべく、制度を設計し、ときには権力を行使する。
社会的弱者も社会の一員ですから、社会全体の福利の増大を考える上で無視はできません。また、すべきでもない。ただ、社会がこぞって弱者のためを最優先に考えるべきかとなると、それは違うでしょう。そんな偽善的な理念が、現実の世の中で成り立つはずがありません。
冒頭のつぶやきを述べた人が、常日頃から社会的弱者のために手を動かし汗をかきながら、なお周囲の無理解や非協力に遭って、それを嘆いているなら、いささか同情できます。ただそんなことはなく、ただ口先だけで言っているとしたら、「お前は間違っている」と言わざるを得ませんね。
]]>twiStation(ついすて)
最近スタートしたサイト。いわばTwitter関連サイトのポータルです。まずはこちらに行き、いろいろ見て、探してみてはいかが。
buzztter
Twitterで頻繁に使われている言葉を抽出してくれます。何かの話題でみんなが盛り上がっている時、乗り遅れないで済みますよ。botアカウントも持っているので、ぜひフォローしましょう。
Twib
「Twitter ホットエントリー」というサブ・タイトルが付いているように、Twitterで話題の記事を教えてくれます。これまで毎日のように利用していたのですが、つい昨日登場したTweetBuzzに乗り換えることになりそうです。サイトが見やすく、またカテゴリ分けされているところが便利だからです。
twitterfeed.com
ブログ更新などのRSSフィードをTwitterのつぶやきにしてくれます。最短でも30分に一度の更新しかしてくれないので、ブックマークなんかで使うと、一度に数件のつぶやきがまとめて投稿されちゃったりします。ただ、フィードのタイトルをそのまま送るだけでなく、前後に任意の文字列を追加することができるので、重宝しています。
私はブログ投稿のほか、ブックマーク登録やメディアマーカー、ブクログの登録時にもフィードをTwitterに流すようにしています。"[ブログ投稿]***"といった感じで。
Twilog
これは、アイデアが素晴らしい。Twitterのつぶやきをブログみたいに表示してくれます。記事数の上限が3200件という制限はありますが(これは、Twitterの仕様)、日別に見たり、検索できたりと、とてもありがたいサービスです。ブログに投稿するのを助けてくれる機能もあります。Twitter使っている人は、全員使うべきです!
Twitterプロフィール検索
かなり便利です。というか、Twitter本家にあってしかるべき機能。つぶやきの内容ではなく、自己紹介の部分で検索をしてくれます。自分と共通点がある人を見つけるのに、役立ちます。
最後に、かなり網羅されている情報源として、Twitter関連ツール・まとめも、おすすめです。今後も、Twitterライフを楽しみませう!
]]>電子メールもインターネットの一種なので、これは変な言い方なのですが、それはさておき。メールは、「衰退産業」ととらえられています。
「電子メール時代の終焉」は来るか:「メールを使わない人」が増加 | WIRED VISION
さすがに、メールがなくなる、ということは想像できませんが、現在メールでやっていることが、別のものにとって変わられることは増えそうです。次のように。
個人間の私信
これはSNS内のメッセージング・サービスや、Twitterのダイレクト・メッセージが使われる機会が、ますます増えそうです。あと、ケータイのショート・メッセージ・サービスとか(日本でも近々、異キャリア間でやりとりできるようになるそうです)。
メルマガ
これは、ブログで代替できますね。今のところはRSSリーダーの普及・利用率が100%にはほど遠い状態ですが、いずれは誰もが使うようになるでしょう。私などは、最近はRSSリーダーの比重が高まりすぎて、従来型のメルマガは開封すらしないことが少なくありません。
ただ、今のところメール以外で代替できなさそうなものも、確かにあります。まず、Webサービスやオンライン通販のサイトを利用する際に送られてくる、確認や通知のメール。これに関しては、他の手段を思いつきません。あと、普段あまり縁がありませんが、不定時の一斉同報なんかにも、メールは威力を発揮します。また、仕事のやりとりも、メールでやるのが無難だし便利でしょう。
どう考えても、メールの終焉というのは、見通し得る将来に起こりそうにありません。さらに付け加えれば、コンタクトのルートが多元化すると、過去のストックから検索するのが煩雑になるというデメリットもあります。
Google Waveがそういうものかどうかはわかりませんが、文字情報はおろか音声や動画をも含む複数のコンタクト手段を駆使できて、しかもその「ログ」を一元管理できる。そんなアプリケーションなりサービスができれば、いわば発展的解消という形で、メールはなくなるかもしれませんけどね。
それはさておき、GmailなどWebメールは、とても便利ですよ。いまだにOutlook Expressなどのメール・クライアントしか使っていない人がいるなら、メインをWebメール、サブ&バックアップをメールクライアントという風に切り替えることをおすすめします。
]]>もちろん一応の根拠はありまして、世の中がますます多様化・多元化していくので、フットワークの軽いスモールビジネスでないと対応しきれない、というのが一つ。そして、働く側としても自分が能動的に関わりやすいスモールビジネスの方が満足感・やりがいが大きいということがもう一つです。
スモールビジネスが主流になれば、それをサポートするBtoBのビジネスも必要となります。そこでもスモールビジネスが一定の存在感を占めるようになれば、スモールビジネス多産時代といった好循環が生まれる可能性があるのではないでしょうか。
そして大企業も、これまでのように規模の経済に立脚するだけではむしろ脆いものになるでしょう。言ってみれば、スモールビジネスの集積体として再編成されることになるでしょう。フランチャイズというのはその「兆し」と評価できますが、現状はまだまだ本部の統制・管理が強すぎますね。
スモールビジネスの時代にあっては、これまでのような大組織中心に設計されてきた制度なんかは、大きく変革を迫られます。税制しかり、年金や健康保険しかり、教育内容しかり。とはいっても、世の中全体がその認識を持つにはまだまだ時間が掛かるので、長い間、生みの苦しみが続くでしょうが。
]]>遺産相続に見る英国と欧州大陸の考え方の違い - しぬまでいきる
欧州大陸では、遺産相続を受けるのは人権の一種として認識されており、個人の判断で勝手に取り上げることができないものと見なされているのに対し、英国ではどのような遺言をするのかは個人の自由という考え方があるようだ。
日本の場合は、相続人が「その気」になれば、遺産の半分まで(相続人が直系尊属のみの場合は、3分の1まで)は取り返せる、という制度です。遺言者の自由に制限・限界を設けているというわけです。
最近、相続税率をどうするか(というか、どれだけ上げるか)というのが一部の人たちによって盛んに論じられています。遺留分も、地味ながら論じるに値するテーマだと個人的には思います。
ただ、さすがに遺留分を増やせという人はいると思えないので、対立は、現状維持派と削減派との間に生じることになるでしょうね。削減派のうち最も過激(?)な人は、廃止を言うでしょう。私もその一人。遺留分制度がなくなることは、遺言制度をとてもシンプルなものにし、使い勝手を格段に向上させると思うからです。もちろん、遺言者の自由を最大限尊重することにもつながりますし。
そんな私から見ると、遺留分制度の現状維持には積極的な利点を見出すことができません。もし一から遺言制度を設計するとしたら、こんな制度を設けることには大反対するでしょう。もし現状維持派の方がいらしたら、コメントやトラックバックでご意見をお聞かせください。
]]>Home Premiumのアップグレード版の「優待パッケージ」です。注文した時は¥13,103だったのですが、なぜか発送時には¥12,599に値下げされていました。ありがたいことです。
インストールは正味2時間ほどで終わりました。
アンチウイルスソフトがらみでちょっとしたトラブルがあった分、少し時間をよけいに費やしましたけど、全体としてはスムーズに行きました。
インストール後、いくつかの「調整」を行いました。まず、初期状態でタスクバーのアイコンがデカくなっているのは気に入らないので、従来のように「アイコン+ラベル」という形にしました。壁紙がスライドショーするのも煩わしいので、解除。あと、ウィンドウが開閉する際のアニメーション効果も、最初は新鮮ですが毎回やられると鬱陶しいものですね。これも、いずれ解除するかもしれません。
とはいえ、全体的にはサクサク動く印象です。何より、最新OSを使っていること、そして悪評にまみれたVistaを脱却することからくる満足感は、何物にも代え難いです。ひとまず、アップグレードして正解でした。
]]>主張の素晴らしさ、そして実例と理論のバランス、いずれもお見事です。
働く“理由”―飲む、愚痴る、そして、働け!:日経ビジネスオンライン
以下、ポイントとなる箇所を引用します。
「愚痴はよくないこと」と思う人も多いが、「愚痴を言う」という行為はマイナスばかりではない。愚痴を言ってスッキリすることもあれば、「そうそう」と仲間が共感してくれるだけでホッとすることがある。一緒にネガティブな感情を共有してくれる仲間がいるだけで心強い。愚痴も使い方次第では、ストレスの雨と対峙する“大切な傘”となるのだ。
愚痴だろうと、酒だろうと、ズル休みだろうと、それが前に進むためのトリガーとなるのであれば、傘にすればいい。ストレスの傘に使ってはいけない傘はない。問題は傘のさし方を間違えないこと。さし方さえ間違わなければ、どんなことでも傘になる。
私には組織はないし、ソーシャル・キャピタルを豊かにするフィールドもない。だが、やっぱり最後は、人とのつながり、で救われた。
他人とのつながりは、想像もしない産物をもたらすことがある。それがソーシャル・キャピタルの根底にあり、ソーシャル・キャピタルそのものなのだ。
多くの人が、現代の日本社会に「生きにくさ」を感じていると思います。その大きな要因は、地域や職場などにおける従来型のつながり方が薄れ、崩れていく一方、新しいものが生まれてきていないからではないでしょうか。地域活動やネットの一部では、そうしたものが生まれつつあるようにも見えますが、まだごく一部です。
まずは、我々一人一人が、人とのつながりの大切さを心底理解することじゃないでしょうか。人間関係は時として非効率で、「ムダ」と感じられることがないわけではありません。でも人と関わることは生きることそのものだし、人が幸せや喜びを感じられるのも、多くは他人との関係の中でのことだと、自覚したいものです。
]]>亀井郵政担当相にとっては「意中の人」だったかもしれませんが、経済界の人何人かに打診して断られたのも確かなようです。郵政民営化見直しにしろ、この社長人事にしろ、民主党政権の性格をよく表しているように思います。
それは端的に言って、政治が官や財の上に君臨し、有無を言わせず従わせるという強権的な体質です。反官僚、反財界が基本的なスタンスと言っていいでしょう。ついでに言えば、親労組でしょうか。
これまでの自民党政権がややもすれば財界べったりの面があったので、それを修正するのは当然のことでしょう。ただ現政権の場合、財界憎しの面があまりに強すぎて、経済成長すら否定、あるいは断念する気配が濃厚なのが気になります。放っておいても景気回復は息切れする可能性が大きいのに、このままでは大不況とか恐慌レベルの経済不振が来そうです。あと、企業の海外脱出とか。
郵政の取り扱いもそうですが、政権交代するたびにいろんな政策が大転換するのも困ります。この調子でいくと、年金など社会保障制度や税制なんかも、いわば「政争の具」にされ、政権交代のたびに見直されるということになりかねません。そのことが、ただでさえ高齢化と人口減少で衰退の危機にある我が国を、さらに衰えさせることにつながりかねません。
じゃあ民主党が長く政権に君臨すればいいのかというと、それも大いに疑問です。政権に長くいるうちに現実的で柔軟な政策路線に転換、というか軌道修正してくれればいいですが、今みたいに「マニフェスト至上主義」を貫けば、日本はいっぱしの社会主義国になってしまうでしょう。
それにしても、こんなこと、先の総選挙で民主党に投票した人たちが望んだことなんですかね。政権の高い支持率を見ていると、どうやらそうみたいですが・・・。
]]>この機会に、現在私がフォローしている相手はどんな人か、まとめてみます。おおざっぱですが、以下の5つの類型にまとめられます。
同業・関連業界に身を置く人
遺言や相続を専門にする司法書士・行政書士などや、葬儀業界関係者の方々です。緩和ケアを専門にする医師や看護師もフォローしたいのですが、多忙なためか、Twitterではほとんど見かけません。
WebやTwitterの有名人
やはりこういった人たちはTwitterでの議論や情報交換でも核になるので、めぼしい人は相当程度フォローしています。
社会起業家や環境活動家
実はこのカテゴリ、向こうからフォローされることが多いです。私がこの分野に関心を持っているのは確かなんですが、ブログでたまに話題にしたり、気になる記事をブックマークする程度なんですけどね。
自由主義者
同じ思想の持ち主、ということで、見つけ次第、フォローさせてもらっています。
単なるフォロー返し
基本的に、向こうからフォローしてもらったら、よほど興味の持てない相手でない限り、こちらからもフォローを返しています。拒否率はざっと10~20%程度でしょうか。なお、英語でしかつぶやいていない外人さんからフォローされた場合は、私をフォローする意味があるとも思えないので、原則ブロックさせてもらっています。
他にbotと呼ばれるものもいくつかフォローしていますが、これは「人」ではないので、割愛。Twitterでは今後、フォロー相手を分類・整理する「リスト」という機能をリリースする予定だそうです。これができれば、フォロー相手の構成にも影響してくるかもしれませんね。
ちなみに私のアカウントは@yuigon_infoです。この記事を読んでくださった方のフォロー、歓迎します。
]]>確かに、ネットを日常的に使っていると、政治に対してもっと直接に民意を反映することができないものか、と発想するのは自然なことです。一昔前の私だったらこんな提案は一笑に付していたでしょうが、現在は真面目に考えてみる価値のあるアイデアと思います。
ただ、文字通りの直接民主制がすぐに実現するとは思えせんし、いろんな問題をはらんでもいそうです。じっくり研究・考察してみたいものです。
私としては、直接民主制の導入以前に、もっと政策に専門知や民衆の知恵が活かされるようにすべきと考えます。それが首尾よく行けば、徐々に直接民主制に近づけていけば良いんじゃないでしょうか。いわば、政治におけるクラウドソーシングですな。
今もパブリック・コメントといった仕組みはありますが、十分に機能しているとは言えません。それどころか、金融モラトリアムの件みたいに、専門家からすれば噴飯モノの政策が打ち上げられたりする。政策を作り上げていく段階から、政治家以外の知恵をどんどん取り入れていける仕組みを構築すべきでしょう。
問題は、昨今の日本政治では「ブレる」ことがすぐ非難の対象になること。知的に誠実であろうとすれば、ブレはやむを得ないことのなのではないでしょうか。大方針についてブレるのは困りものですし非難するべきですが、戦術レベルでのブレは認める。メディアや世論がその程度の弁別すらできなければ、日本の政治はいつまで経っても三流の域を脱することはないでしょう。
]]>まずは、野口悠紀雄氏のアメリカ一極集中の時代は終わらない!? 先端IT企業の超高収益が示す新たな世界。
クラウド・コンピューティングは、コンピュータ利用の新しい方式であり、企業のコンピュータ関連費用を著しく低減する。これによって、小規模企業の生産性が向上する。また起業の初期コストが大幅に低下し、起業が容易になる(このため、ベンチャーキャピタルの役割は、低下していると言われる)。
シリコンバレーでは、この条件を生かして起業する企業が多数現れている。『ニューズウィーク』誌(日本版、09年10月28日号)は、「クラウドの影響で、全米労働者の50%が今後10年で自営業者になり、フリーランスの形で専門能力を提供するようになる」という予測を紹介している。
ICつまりインディペンデント・コントラクターと呼ばれる人たちがいますが、そうした人たちを中心に、専門的な知識やサービスを売り物にする人たちが、数多く開業するようになるだろう、という予測です。昔は自営というと農業・商店・町工場なんかが中心でしたが、新たな自営業の勃興が起こりつつあるんだと言っていいでしょう。それを後押しするのが、クラウド・コンピューティングによるコスト低下と生産性上昇なのです。
それにしても、労働者の半数が今後10年で自営業者になる、というのは信じ難い予測です。まぁこれは過大にしても、たとえば3分の1くらいなら、可能性はあるかもしれません。いずれにしろ、社会的に有用な専門知識・能力を持っていないと、稼ぐことはますます難しくなるでしょうね。
そしてもう一つは、アメリカで在宅起業が増えつつある、というお話。
在宅事業を営むことで家計の少なくとも半分を担っている「在宅起業家」は、米国内で推定660万人。在宅起業家全体で民間労働者の10人に1人を雇用していることになり、自宅外に事務所を構える同業他社と多くの点で遜色ないことが判明した。
在宅事業者が雇用する従業員は、経営者を含めて平均2人。総雇用者数は1300万人以上に達し、ベンチャーキャピタルが出資する企業の総雇用者数よりも多い
在宅事業者には、業務を経営者の自宅で集中して行っているケースもあれば、自宅を本拠地としながら主な仕事場は顧客の家やオフィスというケースもある。在宅事業者の業種は多岐にわたるが、特に多いのは、企業向け専門サービス、建設、小売り、個人向けサービスだ。
日本では、まだ個人事業、とりわけ在宅でのそれは大きなトレンドにはなっていません。SOHOという言葉は定着しましたが、限られた業種・職種でしか実現していないように思います。ただ、クラウド・コンピューティングが浸透してくれば、爆発的に増えるかもしれませんよ。個人での開業、それも自宅を使ったそれが。
]]>その人が問題視していたのは、ワイドショーというより、ニュースですけどね。
テレビがこうしたものを取り上げるのは、当然視聴率の面で「おいしい」からでしょう。私は、こうした風潮そのものは問題ないと見ています。いや、好ましいとすら思っています。
テレビやスクリーンを通じて親しんでいた人が亡くなった。となれば、葬儀だろうが追悼番組であろうが、見たい気持ちになるのは自然なことなのではないでしょうか。親類や近所の人より、芸能人や文化人の方が時として身近に感じられる。それが現代人の心性なんだと思います。いいとか悪いとか言っても仕方ありません。
私について言えば、疎遠な親類や音信の途絶えた同級生より、いつもブログやTwitterを見ている人が亡くなった時の方が、衝撃を受けそうな気がします。
]]>人(今は、芸能人や文化人を念頭に置いています)が亡くなった時、その人について考えたり、情報を欲したりする。それは、死というものが、その人の人生を総括するのに良い機会だから、ではないでしょうか。
「棺を覆いて事定まる」といいますが、生きている間は結局その人の人生を総括することはできません。「確定」していないわけですから。
その意味で、葬儀やその他もろもろの追悼行事は、いいきっかけとなります。自分の中で考えるゆとりをもたらしてくれると同時に、その場で故人について語られる内容が、自分の持つ故人へのイメージを豊かにしてくれるからです。
もちろん、こうした話は、ごく近い身内や親友を亡くした場合には、当てはまりません。そんな生やさしいものではないでしょう。ただ、人は生きていればそうではない「淡い」関わりも持つわけで、その人の訃報に接した時、その人のことを頭の中で総括しておくことは、精神衛生上もいいと思うのです。
そして、他人の死(いわゆる三人称の死)について考えることは、それがどの程度プラスになるかはわかりませんが、自分の死に備えた予習ともなると思われます。
追伸:折しも、本日はレヴィ=ストロースの訃報に接しました。今年は、何か「大物」が次々と亡くなる年のような気がします。
]]>新聞などでも、ここ数日、特集記事を目にするようになりましたね。
同じ年の天安門事件もそうですが、1989年の「東欧革命」は、私の思想に深く影響しています。大げさじゃなく、生きている中で経験した最大の歴史的出来事だと思っています。何せ、ロシア革命から数えると70年以上続いた共産主義への期待や幻想が、最終的に潰えたわけですから。
当時思ったのは、もし自分の国・社会で自由を抑圧する体制ができそうになったら、命を懸けてでもそれを阻止しよう、ということ。自由で民主的な体制の下で暮らすという特権は、絶対に手放してはいけないな、と考えたのです。
旧東ドイツ地域やロシアなどでは、共産主義時代を懐かしむ声があると聞きます。確かに、自由な社会は同時にいろんな生きづらさをもたらしもします。でも、自由が許されない社会、自由を貫こうとしたら生命や人生が危機にさらされる体制は、私にはまっぴらゴメンです。我が国のすぐ近くにある例の「人民共和国」を見れば、それは明白じゃないでしょうか。
現在我が国では、静かなる自由侵害が起きようとしています。それはつまり、重税国家の実現を通じて、個人の経済的自由、ひいては思想・言論の自由が冒されようとしているということです。体制としては資本主義・自由主義は勝利したものの、それへの揺り戻しはいまだに絶えません。結局のところ、1989年の革命は、まだ完全な勝利を収めたとは言えないのです。
]]>シアワセ最大化~新しい働き方「プロボノ」とは?:日経ビジネスオンライン
“プロボノ”とは、社会人が、仕事を通じて培った知識やスキル、経験やノウハウなどを活かして社会貢献することを意味する。
“プロボノ”とは、ラテン語でPro Bono Publico(公共善のために)を略した言葉で、欧米のホワイトカラーにとってはごく一般的に使われている言葉だ。特に、弁護士や会計士、コンサルタントなどが、「月に数時間」「年間で数日」といった時間を決めて、NPOの法律や会計、経営の相談などを無償で行うことがオーソドックスな“プロボノ”のイメージである。
従来のボランティアは、単に「人手」として自分の労力を提供する、という類のモノが多く、本人の主観的満足には役立っても、生産性という点ではお寒いレベルにあったと思います。その点プロボノは、本業で培ったスキルを活かすという趣旨ですので、本人にとっても、労力の提供を受けるNPOにとっても、プラスです。
何でもプロボノを推進する人たちは、来年2010年を「プロボノ元年」と位置付けているとのこと。大いに日本でもこの流れを推し進めていただきたいものです。
で、私なりに捕捉というか、違う視点を。
まず、従来のボランティアは素人、という点ですが、ボランティアであっても、長年(たとえば、5年10年)活動を続ければ、そこで本業とは違った独自の専門性を培うことも可能ではないか、ということ。すでにある本業のスキルを活かすというのは確かに効率的ですが、当人からすれば「オフの日も仕事」という感覚が拭えないと思います。案外プロボノは、持続可能性がないような気もするのです。
そしてもう一つは、ビジネスマンが毎日仕事をしている会社自体も「社会貢献体」になるべきだし、またそうなるだろうということです。ソーシャル・ビジネスと営利企業の境目はなくなって行くのだと思います。そして我利我利亡者みたいな企業は、一時的には成り立っても、長期的には存続し得なくなるでしょう。であれば、仕事以外で取り組む社会貢献は、なおさら本業とは一味二味違ったものの方が良い、ということになるのではないでしょうか。
何か、否定的なことを書き連ねてしまいましたが、少なくとも過渡的形態としては、プロボノには大いに意味があると思っています。専門能力を持ったビジネスマン諸君、NPOに参画してみてはいかが?
]]>問題点を指摘するのには長けているけど、実践には無頓着。そういう人のことを悪い意味で「評論家」と呼ぶのです。
確かに、個人の人生において、あるいはビジネスにおいて、評論家は用無しです。口先ばかりでエラそうなことを言っても、行動が伴わなければ意味がありません。
ただ、これが多くの人の生活、そして生命がかかっている政治となると、そうは言い切れない。「失敗してもいいから、とりあえずやってみよう」というのは、あまりに無責任な態度だと思います。「政治は結果責任」といいますが、それはまさにそういうことで、どんな結果が生じ得るのか、慎重に考慮してからでないと、着手してはなりません。
ここのところ、ある売れっ子評論家(タグ参照)の「暴走」がネットで話題になっています。その突進力は素晴らしいと思いますが、経済政策を主張する以上、経済学的な異論・反論にはきちんと耳を傾けるべきだと思います。私は経済の専門家ではありませんが、どうも彼女の主張には問題が多そうです。
]]>「きれいごと」ばかり言うリーダーは要注意 - Zopeジャンキー日記
これに対して、「お金がすべてじゃない」「社会のために尽くそう」といった「きれいごと」ばかり言う人は、むしろ要注意だ。リーダーがこの種の人である場合、他人には「きれいごと」を説き、無私の献身を求めておいて、それによって自分がお金や権力を得ている、という場合がある。
きれいごと「ばかり」言う人は、確かに要注意かもしれません。きれいごとを言っていながら仕事をしないのでは話になりませんし、上記のように私利私欲のためにきれいごとを利用しているのもいただけません。
ただ、今は消費者も働く人もきれいごとを求める時代です。きれいごと抜きでは、ビジネスの成功自体、覚束ないんじゃないでしょうか。今どき、「金だ、金だ」とか「利益だけ考えろ」みたいなことしか言わないリーダーに、有能な人間が付いていくでしょうか。私にはそう思えません。少なくとも私は、付いていきません。
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という格言(二宮尊徳の言葉とされますが、どうやら違うようです)があります。極端な言い方ですが、まさにそういうことじゃないでしょうか。
]]>そしてその批判は、恐らく正しい。「バラマキで内需拡大!」なんていうのは、政策として評価するに値するレベルに達していませんから。
私は、とりあえず次の2点を現政権にやってほしいと考えます。一部ではリフレと呼ばれる金融政策を提唱する向きもありますが、効果が不確かな上に弊害も小さくないと考えられるので、あれには賛成しかねます。
反企業・反市場的な政策をやめよ
民主党のスタンスはあまりに反企業・反市場的です。雇用規制の強化や、大胆な温暖化ガス排出削減目標などにそれは表れています。そしてもっと根本的に「大きな政府」を目指しているのではないかという疑念が拭えません。そうしたことが、世論の高い支持にも関わらず、金融・証券市場で低い評価しか得られない理由でしょう。経済を活性化させるんだ、という覚悟を持って、行動で示して欲しいものです。
社会保障制度の再構築を
この点では、民主党に期待しています。少子高齢化が最悪のペースで進んだとしても持続し得る制度にしてもらいたい。そしてそれは、時には一部の国民の既得権に切り込むようなことにもつながります。JAL再建においてOBの年金減額が焦点になっていますが、あれが国家的規模で起こるわけです。ともあれ、国民が持続可能性に確信を持てたなら、消費はかなり活性化するんじゃないでしょうか。これこそ、真の内需拡大策と言えるでしょう。
現状のままでは、来年には景気の二番底、それどころか「恐慌」と言いたくなるような大不況が来るのではないでしょうか。倒産や失業が増え、自殺者が増えたりする中では、友愛社会の実現なんて、できっこありませんよ。
]]>ホリエモンこと堀江貴文氏が、ブログでこんなことを。
未だに手帳かよ!|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」by Ameba
でなんで手帳なんだろう?メモとか検索できなくて不便じゃないんだろうか?会議とかメモとってるのか?でも会議中で話されたことで手帳にメモとらなきゃいけないことってそんなに無いはずなんだよねぇ。。。メモ取るふりしているだけなんだろか?
おれは、メールとスケジューラで全部やってるからなあ。。。
検索できないってことは、過去に書いたこととか全然見ないってことだよねぇ。致命的な気がするんだけど、長年の生活習慣ってのは変えられないのかなあ。。。
スケジュール管理や情報管理について、デジタルとアナログを比べれば、デジタルの方が優れている点は多いでしょう。検索が容易なこととか、データを二次利用しやすいこととか。
ただ、サッと書ける、サッと閲覧できる、という点では、まだまだ手書きの手帳の方が優れています。というか、いくらインターフェイスが改善されても、デジタルはアナログにかなわないところが残るような気がします。そこを割り切って堀江氏のようにデジタル一元化に走るのも良いでしょうが、結局は個人個人が、デジタルとアナログの使い分けをバランスすれば良い。
少なくとも、「手書きの手帳なんて時代遅れ」というのは、暴論でしょう。
手帳の機能の一つに「アイデアや小ネタをメモする」というのがあります。これに関してだけは、今は存在しないような画期的な機器・インターフェイスが開発されない限り、手書きが優位を保ち続けると考えます。
さてと。そろそろ私も来年の手帳を買わねば。
]]>【正論】筑波大学名誉教授・村上和雄 「心」を変えてヒトは進化する - MSN産経ニュース
心にも、ある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ちかた」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実である。
つまり、心の働きを変えるだけで、遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性があるということが分かり始めた。
この事実は、人の生き方や考え方に、新たな望みを与えてくれる。なぜなら、人のDNAは自分で変更できないが、心は自分で変えられるからである。
・・・
私は、笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈りまでもが、良い遺伝子をオンにすると考えている。
これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。
この新しい進化に貢献するのが人間の使命であり、すべての生き物の「いのちの親」の望みに添うのではないかと思っている。
現時点では、あくまで仮説・見込みの域を出ませんが、大いに追求するに値する仮説ではないでしょうか。少なくとも、普通に生活している人間の直感に反するものではありません。また昔から「病は気から」なんて言葉もあるくらいだから、気の持ちようが身体に影響を及ぼすことは経験的に知られてもいました。「トンデモ」の一言で葬り去ってしまうのは、もったいないというものでしょう。
ちょうど先日、私はこんなことをつぶやきました。
村上氏の説と完全に一致するわけではありませんが、相通じる部分はあると感じます。
村上氏は「笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り」が良いと述べています。次回は、この「良いこと」について考えてみたいと思います。
]]>まず、言うまでもないですが、財産に関わることなど、民法の定める遺言をTwitterでつぶやいても、法的に効力を持つことはありません。法は、全文を自筆で書くことや、捺印することを定めていますから。Twitterに限らず、ネットやPCを使った遺言はすべて無効なんですね。
一方、家族への最後のメッセージを遺す媒体としては、もちろん利用できます。なので、私がTwitter遺言の可否について尋ねられれば、「無効だけど、有意義」と答えますね。
ただ、Twitterはかなり私的というか本音が出やすいメディアなので、妻・夫や子といった家族に見られる・見せるというのは、個人的にはスッキリしません。少なくとも私自身は、Twitter遺言はやろうと思いません。もちろん、いまわの際のつぶやきが、結果として遺言としての意味を持ってしまうことはあるでしょうが。
むしろ私がおすすめしたいのは、ブログに専用のカテゴリ(「遺言」とか「エンディングノート」)を設け、折に触れて希望や家族へのメッセージを書き連ねていくことです。こちらも法的に無効である点は先のTwitter遺言と同様ですが、見やすさという点でははるかに勝ります。それに、Twitterのつぶやき一つとブログの記事一つでは、後者の方が「重み」がありますしね。
つまるところ私がTwitter遺言に違和感のようなものを感じるのは、普段から「気軽に遺言しよう」と言いつつも、さすがにTwitterでつぶやくほどカジュアルなものであってほしくない、と思っているからかもしれません。
]]>私はビデオで観たのですが、ご多分に漏れず、何度も涙しながら観ることとなりました。原作の売れ行きも好調みたいですし、「大反響」と言っても、大げさではないと思います。
著者にケチを付けるわけではないのですが、一つだけ、自分に言い聞かせたことを書きます。それは、人生において後悔しないように、あるいは後悔を少なくしようとすることは大いに結構だが、それが最優先ではありえない、ということです。
まずは、人生の中で何をするか、何を成し遂げたいかを思い定め、それに向かって邁進する。それこそが、最優先のはずです。ただ、著しく後悔を誘うような要素があると、仮に達成したものが大きくても、満足感や達成感が打ち消されるおそれがあります。折に触れて、「自分は後悔しない生き方をしているだろうか」と問い直すことは有意義と考えます。
人の個性は多様ですが、後悔することの中身は無限にあるわけではありません。同書を元に、各人が「チェックリスト」を作ってみるといいのではないでしょうか。ブログやTwitterで「自分は後悔することばかりだわ」とぼやいている人がいましたが、生きている限り、後悔の種を減らすことはできるはずです。
]]>これは、後者の例となりそう。
若者雇用にNPO活用、新規採用の資金支援へ : 経済ニュース : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
政府は19日、深刻化する就職難を改善するため、非営利組織(NPO)を雇用の受け皿として活用する新たな制度を導入する方針を固めた。
環境保全、育児、地域活性化など公共的な分野で実績を上げているNPOが新規職員を採用する際の人件費などを政府が資金支援する案を中心に検討を進めている。雇用対策を重点施策とする2009年度第2次補正予算案に盛り込む見通しだ。
どう考えても、当座の雇用危機を緩和したり克服したりするには、NPOは力不足でしょう。こんなことをするなら、最低賃金引き上げや派遣規制など、雇用を減らすのが確実な施策を、まずやめればいい。
ただ、もし民主党が「市民やNPOなどの活動を側面から支援することが21世紀の政治の役割だ」と考えているとして、その一環としてこういうことをするのなら、大いに賛同したいものです。
たとえば、国民の3分の1がNPOやソーシャル・ビジネスに従事するようになったとしたら、かなりのインパクトがあるでしょう。社会に良い影響を与えることは当然期待できますが、他方で、企業や役所に雇われるのが「正規雇用」だという考え方を変えなければなりません。もちろん、様々な制度も。
年金など社会保険・社会保障制度は抜本的改革が迫られますし、ベーシック・インカムないしは負の所得税のようなものを設けなければならないかもしれません。寄付税制を改めて、個人や企業がNPOに寄付しやすくするようにすることは、もちろんです。
民主党政権に、そこまでの覚悟はあるのでしょうか。
]]>クラシックが好きだというその人、CDが出始めた頃にあらかた手持ちのレコードを処分してしまったそうです。けれどレコードには、CDには出せない味わいがある。「愚かなことをした」とも書いてありました。クラシックの場合は特に、CDがレコードにかなわない部分が目立つのでしょう。
デジタルの優位性を日頃から信じ、むしろそれを推進したいと思っている私としては、大いに反省させられたことでした。「便利さ」という点ではデジタルの優位は間違いないと思いますが、アナログの持っている情報、さらには味わいまでもデジタルが取り込めているわけではありません。デジタル一辺倒になっては、取りこぼしてしまうものがあるかも、ということは押さえておいた方が良いように思います。
よく言われるように、メールなどネットを通じたコミュニケーションでは、対面コミュニケーションを完全に代替できませんし。
陳腐な結論になってしまいますが、デジタルとアナログ、それぞれの長所を使い分けることこそが、最も賢明なのでしょう。(なお、こうした二元論自体、きわめてデジタル的なのですが・・・)
ところで、上記のコラムでは「人生の残り時間は限られているから、いいものを選びたい」といったことも書かれていました。筆者はもちろん私よりかなり年上です。私もいずれ、いろんな面で「便利さより質」というシフトを図っていかなければ、とも思ったことでした。
]]>【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 静かな日本人 - MSN産経ニュース
韓国人にとって、釜山の事故での日本人遺族たちの姿はたいそう印象的だったようだ。日本でそうであるように、彼らは肉親を失った悲しみにもかかわらず韓国人のように泣き叫ばず、実に静かだったからだ。多くのメディアが「普通の日本人の節制された姿」に感心している。
その背景として日本人の「人に迷惑をかけない」という教育や「悲しみを外に出さないことが美徳」とする価値観などを指摘している。ある記者は「現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然(きぜん)とした姿と節制された言動は長くわれわれの記憶に残るだろう」と書いている。
たまに事故や事件で韓国人の遺族が泣け叫ぶシーンを目にしますが、確かに日韓でのこの辺の文化・作法は異質と言ってもいいくらい、異なっています。
ただ葬儀屋さんのブログで、「ここ最近は、火葬場で激しく泣く遺族をあまり見なくなった」という証言を目にしたことがあります。同じ日本人で比べても、昔より現代の方が、悲嘆の表現が控えめというか内向的になっているようです。この点に関しては、そもそも悲嘆が弱まっている傾向があるのでは、という疑いもありますが。
ともあれ、仮に家族を不幸な事故や事件で亡くしたとしても、度を失うくらい嘆き、泣き叫ぶのははしたないこと、カッコ悪いことだ、というのは、多くの現代日本人に共通する感性だと思います。
さてそれについて、こんなブログ記事が。
みとりびとは、いく: なぜ日本人は「慟哭」しないのか~悲しみを外に出さない美徳について。
葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。
悲しみがあるのだとしたら、それを適度に表へだすことは健全ですらあります。秘めてしまうと、悲嘆はより重く、長引くおそれがありますから。一方、悲しみ自体が希薄になっていて、そもそも表現しようにもその元となる「情」がないのだとしたら、それはそれで大問題です。
この辺の日本人の心や行動の変化は、注意深く見守って行きたいものです。
]]>自分の意志の弱さを自覚していて、「サボり癖」がついてしまうと更新が続かなくなってしまうことを恐れて、毎日と決めている人もいるでしょう。また、「楽しみにしてくれている人がいるから」と、一種の義務感からこのノルマを課している人もいるかもしれません。何にしろ、律儀なことです。
個人的には、「1日1ブログ」というノルマはあまり感心しません。書きたいことや書くべきことが多すぎて、むしろネタの絞り込みに苦労する、という人はいざ知らず、大したネタがないのに無理して記事を書くのは、不健全なことだと思うのです。
個人的には、2日に1件のペース、つまり月間15件・年間180件強のペースでブログを書けたら、上出来だと思います。大事なのは長年にわたって続けることで、これを10年20年と続ければ、一件一件は他愛のない記事でも、「財産」といっていいほどのものになります。逆に頻繁に更新していても、数年で終わってしまうようでは、あまり意味がありません。
ただし、書きためたブログが生きてくるためには、タグ付けと、サイト内検索機能は必須だと思います。これがあれば、記事どうしがリンクしていって、時系列じゃなく、トピックスごとに記事を読み返すことができますから。
よくブログにカレンダー式のアーカイブ・リンクを表示している人がいますね。あれも、「1日1ブログ」へのプレッシャーになっている気がします。リンクのない日、つまりブログを更新していない日がたくさん出るのは、みっともないですもんね。あれがあると。月別のアーカイブへのリンクなんかはいいですけど、カレンダー式のアーカイブ・リンクを置くのは、やめたほうがいいんじゃないでしょうか。
ブログは、日記じゃありません。いやしくも他人に読んでもらうつもりなら、ネタは厳選し、文章も読みやすいものにしないと。
]]>今どきの若者は言語力に難がある。それを高めるためにどうしたらいいか。といった内容でした。
11月25日(水)放送
“言語力”が危ない
~衰える 話す書く力~
10月下旬、「言語力検定」がスタートした。言語力とは論理的にモノを考え、表現する力を指し、その低下が2000年以降進んできた、国際学力調査"PISA"での成績下落の一因と見られている。進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」などの事態が相次ぎ教師たちは危機感を強めている。また、言葉の引き出しが極端に少なく、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている。背景には、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されている。子どもたちの「言語力」低下の実態を見つめ、育成のあり方を考える。
(NO.2822)スタジオゲスト:鳥飼 玖美子さん(立教大学大学院教授)
若者を「ダメだ」と決めつける視点や、「正しい作文」を押しつけるところなど、疑問を持ってしまう箇所はありましたが、総じて刺激的で、面白い内容でした。
番組で強調されていたのは、幼いときから自分の考えを整理し、きちんと表現する機会やトレーニングの場を持つことが大事、ということでした。
学校には国語という教科があるわけですが、それが言語力養成にあまり役立っていないのだとしたら、深刻に考えないといけないかもしれません。個人的には、国語は「言葉とコミュニケーション」といった教科に衣替えするといいんじゃないかと思います。
ただ私から見ると、番組内の言説は「表現」に偏重しすぎているように思えました。言葉というのは過去からの蓄積としてあるわけですから、古典などの読書によって知識や思考の型を吸収するのも、同じくらい大事なのではないでしょうか。あと、これはあまり言われませんが、ことわざや故事成句を暗記するのも、結構役に立つと思います。実際の表現でそれ自体を使わないにしても、思考の密度や効率を上げるのに役立つでしょうから。
ともあれ、みんなが言語力を高めることは、本人の人生の質という点でも、社会活動のレベルという点でも、大いにプラスになると確信します。まずは、「言語力、大事だよね」という認識を、みんなで共有したいものです。
ちなみに私は、「言語力」というようなあいまいな用語は好きではありません。漠然としすぎていて、定義や測定ができないからです。これは最近よく聞く「コミュニケーション力」も、同様です。自分ではなるべく、こういう言葉を使わないようにしたいと思います。
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21世紀型企業は、社会貢献で利益を生む 時代はCSR経営を超えてSVMへ JBpress(日本ビジネスプレス)
21世紀市場においては、これら4つの競争軸に加え、第5の競争軸をマスターすることが求められている。下図のように、この競争軸を「環境革新(グリーンイノベーション)+持続可能性の追求(サステナビリティ)」と捉えることができる。
この考え方は、まだまだ経営者の間で常識化しているとは言えないでしょう。でも、この競争軸を無視する企業は生き残れない、という現実は、時間が経つにつれてますます明白となってくるはずです。
揺るぎない経営の方向感として、むしろ「トレードオン」を目指すことが必須となっている。「トレードオン」とは、私が拙著『第5の競争軸』で用いる造語の1つだが、その意味は単純明快である。
企業の価値向上と、社会価値の創造との間の “善の循環” や、明確な相乗効果を目指して取り組むことが必要だという考えである。一夜にして実行することはできないにしても、経営の認識として、そして戦略においても「トレードオン」を目標とすることが死活問題とも言えよう。
筆者は、消費者や投資家が、こうしたトレードオンを求めるのだ、と言っています(投資家についてのロジックは、正直、よくわからないのですが)。私なりに付け加えるなら、このトレードオン、有能な人間をリクルートし、気持ちよく働いてもらう上でも、今後ますます重要になってくると思います。自分を大切にする人間なら、少しでも「誇り」を持てる組織で働きたいと思うものですから。
さてこうした考え方は、日本人にとっては必ずしも初お目見えではありません。「三方よし」といった近江商人の商道徳しかり、渋沢栄一の「論語と算盤」しかり、松下幸之助の経営哲学しかり。「会社は社会の公器である」という言葉を知らない人も、まずいないでしょう。あとは、そうした考え方・哲学をどうアレンジして、現代に活かしていくか。そこが問題なのです。
少なくとも「企業がまず目指すべきは、利潤の追求だ」なんてことを口走る輩は、21世紀には要りませんね。
]]>中でも、昔の洋楽をよく借りています。大学生の頃にCDを借りてカセットにコピーしたようななじみの曲を、改めてデジタル化して手元に置いておきたいので。
昨日から今日にかけて、エルトン・ジョンのベスト盤を聴きました。以前よく聴いていたのは20代前半の頃ですけど、昔より味わい深く感じられて、いい気持ちでした。
音楽に限らず、書籍やドラマ、映画、アニメなど、コンテンツ全般に言えることですが、時間が経ってから再度接すると、感動がいや増すものと、感動がさめちゃうもの、両方があります。趣味や好みが変わる(願わくは、成長であってほしいものですが)ということもあるでしょうし、流行など時代の影響から離れたところで純粋に作品の価値が見えてくる、という部分もあるように思います。
いずれにしろ、今回のように「また聴いてみたら、前より良かった」というのは、うれしいことです。ちなみに私にとっては、カーペンターズも、どんどん輝きを増しているアーティストの一つです。
なお音楽に関しては、感覚の老化によって騒がしいもの・躍動感のあるものより、静かなもの・ゆったりしたものの方が心地よくなる、という面もありそうな気がします。この辺はあまり考えると気が滅入るので、今日はこの辺で。
]]>テーマを決めて情報収集を続けていると、ある時から、個々の情報が有機的に絡み出し、断片的な情報からでも立体的な分析・思考につなげていくことができるようになります。ということで、専門家になりたいのなら、分野を画定すること、情報収集を継続することが絶対に必要です。
私に関して言えば、遺言および葬送や終末期医療が、専門分野ということになります。
これらの分野に関して、いろんな手段を使って情報収集をしています。主なものとしては、以下のもの。私について言えば、現状対面によるリアルなコミュニケーションからの情報収集は、皆無に等しい有様であります。
今回話題(というか、問題)にしたいのは、新聞などのサイトが一定期間経つと記事を削除してしまうことです。著作権のこととか自社の新聞データベース・ビジネスとの兼ね合いなど、事情はあるのでしょうが、「リンクはパーマリンクであるべし」というWebの理念には真っ向から反します。
要は、一時的なネタとしては使えるけど、資料としては使えないということです。個人が新聞社のサイトを資料として役立てるには、以前なら新聞紙を切り抜いてスクラップ帳を作ったのと同じように、各人がローカルにデータを保存するしかありません。もし新聞社がパーマリンク仕様にしてくれれば、全文検索可能なソーシャルブックマーク一つで事足りるのですが。
で、次回は私が少々模索した結果、Webページのスクラップをどのように行うことにしたか、ご紹介します。
]]>中でも、これ。
私もReTweetしたのですが、この問い、いろんなことを考えさせてくれますね。
まず、私が最初に思ったのは、この問いに対して”YES”と答える人は多くないだろうけど、本音というか無意識の心理としては「三流、上等じゃん」といった感覚が、想像以上に広がっているのでは、ということです。でないと、あえて衰退を選択しているかのような今の日本のありようを、説明できません。
三流国の定義って、何でしょうか。人それぞれ、いろんなイメージがあっていいと思いますが、私は次のようなことを思い浮かべます。
上記発言に対して、「日本は、もう三流国じゃん」と思った人がいるかもしれません。でもそれは甘い。国は、社会は、まだまだ堕落する余地があります。
三流国であることを肯定する人はもとより、三流国に堕ちていくことを否定しない人も、人々が幸福になる途を狭めているのだということは、自覚していただきたいものです。
]]>緩和ケアについては、私も少しは勉強しています。よって番組では、既知の情報、未知の情報、両方がありました。
まず、緩和ケアについて見聞きするときいつも思うのが、いやしくもがんの治療に携わる医師であれば、緩和ケアのイロハくらい知っておけよ、ということ。
多忙だからとか、勉強しなければいけないことがいろいろあるとか、言い訳はいろいろあるでしょうが、かなりの割合(番組内では、8割とも)は、よく知られた医療用麻薬で対処できるとか。そうしたありふれた痛みで患者が苦しんでいるとしたら、医師として恥ずべきことだと思います。
さて、問題は残り2割の難例です。こうした時にこそ、緩和ケア専門医の出番、ということになるのでしょう。番組を観ながら思ったのは、「この分野って、創造性が要求されるよな」ということ。簡単な公式で対処できないので、仕事は複雑になります。時には、ひらめきも大事だったり。でも、だからこそ、面白く、やりがいのある仕事なんじゃないかと思いました。
緩和ケアにおいては、看護師など医師以外の人の役割も大きいです。その辺も含めて、この分野はまだまだ「できること」が、いっぱいありそうです。
]]>前もって知っていたら、きっと観ていたであろう番組のことを、あとから知るという・・・。再放送されるものもありますが、1~2週間先だったり、放送が深夜だったりと、あまり都合が良くない。
そこで、思い切ってNHKオンデマンドの「見逃し 見放題パック」を申し込みました。これは月々1,470円の定額料金で、NHKの主要番組を放送後10日間、いつでも観られるというものです。定時のニュースも、同じく1週間観られるとのこと。
まだ細かく確認したわけではないのですが、私がよく観る番組はほとんど入っているようで、今後はNHKをリアルタイムで観たり、録画して観る必要は激減しそうです。
NHKが好きな私にとっては、申し込んで損はないサービスですが、望むらくは、もう少し料金を値下げしてもらいたいものですね。980円とかに。受信料は既に払っているわけですから、気分としては二重に金を取られている気がするんですよ。
あと、これはいずれ改善されるようですが、Internet Explorerでしか観られない、というのも勘弁してほしいです。
NHKオンデマンドには「特選ライブラリー」というコーナーもあります。こちらは、過去の名番組を数百円で観られるというもの。1本315円というものが多いようです。これもやはり、100円くらいが適正価格なんじゃないですかね。
ともあれ、これからはさらに「NHKの番組を観て・・・」といったエントリが増えるかもしれません。NHKの番組をよく観るという人は、NHKオンデマンドの利用を検討されてみてはいかがでしょうか。
]]>次期国家主席の最有力候補とは言え、中国の特定勢力に「肩入れ」するのはいただけません。これが「天皇の政治利用」でないというなら、政治利用に当てはまるものなんて、ないでしょう。
官房長官が宮内庁長官にねじこんだ経緯も、いかがわしいものがあります。首相や小沢幹事長の意向が働いている、と言われていますが、きちんと国民に向かってこの件についての真意を説明してほしい。そして、各界からの批判に対して申し開きをしてほしいものです。
最大の問題は、対米関係とのあまりのギャップです。普天間基地の移設問題ではサボタージュを決め込みながら、この問題では異常なフットワークの良さ。対米関係はないがしろにする一方、対中関係は最大限大切にする。それが民主党政権の基本姿勢なのだとしか、考えられません。
折しも、小沢幹事長率いる大訪中団のことが話題になったばかりです。こんな危うい外交をする政権、本当に国民が望んだものなのでしょうか。少なくとも私は、外交の一事だけでも(それ以外にも、経済面などいろいろありますが)、もう鳩山内閣には政権の座にいてほしくない。そんな心境です。
※本件に限らず、このところ鳩山政権のダメっぷりは甚だしいものがあります。同政権がつぶれるまで、このブログでも批判を続けたいともいます。国が崩れていくのを座視するのは、卑怯なことだと考えますので。
]]>従来はFirefoxを使っていました。「スピード」では前からChromeに惹かれていたのですが、豊富なアドオンが使えるFirefoxの方が、「便利さ」では勝っていましたので。
ところが先週、Chromeでも拡張機能が使えるようになり(ChromeではExtensionと言います。現在、Extensionはベータ版までしか対応していません)、思い切って切り替えることにしたわけです。
若干の試行錯誤を経て、12月14日現在、私が使っているのは以下のExtensionです。基本的には、今後も徐々に増えると思います。
AutoPatchWork
複数ページの記事を、自動的に一つのページとして表示してくれます。この機能、使い慣れると手放せませんね。
Chromed Bird
簡易Twitterクライアントです。閲覧はしづらいですが、クイック投稿には、使えるかも。
ChromeMilk
Remember the Milkのタスクを管理できます。これは便利。
Evernote Web Clipper
閲覧中のページの全体または一部をEvernoteにクリッピングできます。
hatena-bookmark
はてなブックマークに登録したり、コメントを見たりできます。はてブユーザーなら、必須のExtensionでしょう。ただ、タグ周りの機能はFirefox版より劣化している印象があります。「おすすめタグ」が表示されないこととか、過去の使用タグが頻度順でなくABC順に表示されることとか。
RSS Subscription Extension
最短クリック2回で、RSSの購読ができます。これは便利。私のように、複数のRSSリーダーを併用している者には、ブックマークレットでやるより、こっちが合理的なんです。
Shortcut Manager
専ら、「右側のタグを閉じる」にショートカットを割り付けたくて、利用しています。そもそも、こんなことのために拡張機能を使わなきゃいけないのが、おかしいんですけどね。あと、こいつはツールバーに表示されるんですが、これは不要だなー。
こんなところです。今後ほしい拡張機能については、別エントリで。
ツールバーに表示されるExteisionは、インストール順に表示されます。神経質な人は、この並び順も思い通りにしたいかも。現状でも、いったんアンインストールしてから好みの順でインストールすれば、並び順を自分で決めることはできます。いずれは、「Extensionを管理するExtension」というのも、必要になるかもしれませんね。
幸い、どこかのブラウザとは違って、ChromeはExtensionを入れても速度が低下するということはないそうです。気に入ったものがあれば、どんどん利用したいものです。画面(ツールバー)がゴチャゴチャするのは、難点ですが。
次回は、拡張機能以外に、Chromeを使う上で工夫していることなどをご紹介したいと思います。
]]>昨日のネットでは、次の記事が話題になりました。私も、ブックマークしたものです。
東洋経済でサイバーエージェント社長らに社会起業家がおおいに叩かれている件について実は私、Twitterを「社会貢献」というキーワードでウォッチしております(他に「遺言」「相続」などでもウォッチしてますよ、当然)。すると、社会貢献を肯定的に語っているものと、むしろ否定的に語っているもの、双方に出くわします。割合としては前者が7:3くらいの比で多いのですが、社会貢献が声高に叫ばれるにつれ、それに違和感や反発を感じる人がいる、ということも、また事実なのです。
批判のポイントは、「利益を出さなければ会社はやっていけない。それをさしおいて社会貢献を唱えるなぞ、寝言だ」ということのようです。社会貢献はカッコいい、といった風潮も一部に出始めているので、なおさら反発を覚えるようです。
こうした、いわば社会貢献派と利益重視派の対立、意外に根深いものがあるのではないかと感じます。一昔前の、資本主義者と社会主義者の対立のような。両者は、人間観、社会観、企業観などが、決定的に異なるんですね。イデオロギー対立、と呼んでも大げさじゃないでしょう。
私はといえば、もとより前者です。社会貢献の旗を大きく掲げた企業やNPOは好ましいと思いますし、これからの時代、そうでないと従業員が誇りを持って働けないと考えます。少なくとも、意識の高い従業員であるならば。利益は事業継続の条件、と言われますが、その一部は寄付で賄ったっていいじゃないですか。
世の中にどれだけ好ましい変化を与えられたか。顧客・従業員を問わず、関わった人をどれだけ幸せにできたか。こうしたことが、これからの企業の成功を測るものさしとなるはずです。利益の極大化こそ企業の使命と信じ込んでいる人は、悪いけど前世紀の遺物と言わざるを得ませんね。そんなトップが率いる企業の製品やサービス、あなたは買いたいと思いますか?
※「社会貢献」については上記のような事情で今後もネタがちょくちょく見つかるでしょうから、折に触れて本ブログでも語りたいと思っています。
]]>細部には同意するところ、教えられるところも少なくなかったのですが、「社会相続(つまり相続税100%)+ベーシック・インカム」で、食うためにあくせくしなくて済む社会にしよう、という提案は、とうてい受け入れられません。率直に言えば「話にならん」と思います。
同書に限らず、ベーシック・インカム論の弱点は、導入後の社会変化に対して、あまりに楽観的、ないしは思慮不足であることです。働かなくても一定の収入が得られるのであれば、社会の労働供給は間違いなく減るでしょう。それは人件費の上昇、ひいては物価の上昇を招き、結果としてそれまでのベーシック・インカム収入の価値を低下させます。それがベーシック・インカムの引き上げにつながり・・・以下、同様です。
私から見て、ベーシック・インカムなぞよりずっと意味のある改革は、次のようなものです。
Twitterなどで見ていると、ベーシック・インカム導入に賛成する人は、結構いるようです。そんな人には、「もっとましな改革案があるよ」と言いたいですね。
]]>[tweet id=6757099377]
どれだけの人を満足させ、「ため」になっているか。その範囲の広がりによって、企業の成長・発展段階を類型化したものです。
私の主観ですが、企業全体の3~4割は「売り手だけ良し」、5割強が「売り手良し・買い手良し」で、「売り手良し・買い手良し・世間良し」なのは、1割以下じゃないでしょうか。大多数の企業にとって最後の段階は見果てぬ目標ですし、そもそも目標としていない企業も少なくないでしょう。
そして最悪なのは、企業としては「売り手良し」であっても、実際に仕事をしている従業員は全然ハッピーじゃないケース。世に言う「ブラック企業」というのは、まさにこういう会社のことを言うのでしょう。
さて、こうして見てみると、より下位の発展段階にある企業が、より上位にある、もしくはより上位に行こうと目指している企業を批判したりバカにしたりするのは滑稽であり失礼千万なことだと思えます。確かに「実績」がある者は口先だけの者よりエラいかもしれませんが、まだ成長の余地があるにも関わらず、そのレベルに甘んじるのは、見苦しいというしかありません。
]]>民主党には、「経済成長戦略を出せ!」という要望が強く寄せられていますが、未だに出ていない。きっと、出せないのでしょう。野党の時代から、党内でマクロ経済に関する突っ込んだ議論が行われた様子はありませんので。
よく言われるように、再分配政策などと言って弱者に福祉や給付を与えるにしても、その元手が必要です。パイの切り分けだけでなく、パイを大きくすることが必要なのです。
個人的には、成長戦略は中身もさることながら、国民に浸透し、我が国の進むべき道をみんながはっきり認識することが大事かと思います。その点で一定の説得力があるものでなければなりませんが、それと同じくらい、政治家などによる広報・宣伝がカギを握っていますね。
さて、私の考える「日本の生きる道」は、次のようなものです。キーワードを、散りばめまくっています。
高齢化と環境問題を、伝統文化とハイテクで乗り越える。
そして大衆文化は、アジアで一番クール。
詳しくは、別途。
]]>そのこと自体は大いに結構です。らしさの反対、あるいはらしさの欠如は、没個性ということでしょうから、らしさがある方が、いいに決まっています。
問題にしたいのは、そこで持ち出されてくるらしさが、本人の趣味だったり、好みのモノだったりと、はっきり言ってショボいものが多い、ということです。
故人である当人が恐らくそれを喜ぶであろう、と遺族が感じ、心から満足してそうしたらしさの発揮にいそしむなら、他人がとやかく言うのは余計なことです。また、実際に故人の持つらしさがその程度のものなら、いいも悪いもありません。
ただ意識の高い人、モノがよく見える人は、それでは「薄っぺらだな」と感じるはずです。やはり人は志を持って生きるべきだし、葬送の場で語られる「らしさ」も、それを反映したものでなければならないと思うのです。
「らしさ」があればそれでいいというものではない。その中身も問題だ、ということです。
]]>在宅介護者が利用するサービスは、年末年始にことごとくお休み。そのため、介護する者にとっては辛い時期だと。
私が子どもの頃は、正月は世の中全体が「お休み」という感じでした。父親はスーパーマーケットに勤めており、2日から出勤するのが通例でしたけど、これは世間的には特殊なことだと思っておりました。これは私が社会人になってからも同様で、まだまだ正月休みというのは一般的だったと思います。
ところが最近は、元日はともかく2日3日となると、正月らしさは急速に薄れて、日常が戻ってくる感があります。松が明けるまでというのは論外としても、正月3が日をゆったり休む人というのは、働く人の中ではすでに少数派になっているんじゃないでしょうか。
こうした流れを、けしからんこと、嘆かわしいことと捉える向きもあるでしょうが、私は仕方のないことと思います。それぞれの業界が厳しい競争下にあるわけですし、まとまった休業は顧客に迷惑や不便を及ぼすことにもなりかねません。これからは、何年かに一度ゆったりした正月を迎えられれば上等、という風になるのではないでしょうか。
もちろん、介護の世界にもいずれそれは及ぶはずです。冒頭のつぶやきを、いつか「懐かしい」と思い起こすことになるんじゃないでしょうか。
]]>どんな業界であれ、「社会貢献してるの?」と問われるようになっています。葬儀業界も例外ではなくなりつつあります。今は業界内でも目端の利く会社が取り組んでいるに過ぎませんが、数年のうちには当たり前というレベルになるんじゃないでしょうか。
本業での貢献
まず、これが最優先です。本業を差し置いて別のことで「いいこと」をしても、それは偽善・アリバイ作りにしか過ぎませんから。顧客に満足を与えられているか、従業員に働く幸せをもたらせているか、これらが厳しく問われなければなりません。
その上で、これは私の理想ですが、死、そして大切な人との別れを経験している人に、ある面では慰めとなり、ある面では気づきを与えるような「お別れ」の場を、遺族などと一緒に創っていく。そうした役割を果たしていただきたい。
葬儀の形は変わり、たぶん今より儲からなくなるとは思いますが、仕事のやりがいや社会的意義は、もっともっと高まっていくと、信じています。
本業以外での貢献
上記をある程度満たしたら、本業以外での貢献も考えるといいでしょう。「死」にまつわるお仕事である以上、それに関連したものがいいと思います。ビジネスの性質上、宣伝や売名行為と受け取られることは、慎まねばなりません。反感を持たれては、本業にとってマイナスですから。
アイデアはたくさんあり得るでしょうから、ざっと項目名だけ列挙。パクってもらっても、構いません。
ちなみに私の遺言業界においては、
といったことが、王道の社会貢献になろうかと思います。個人的には、「葬式仏教を壊滅させ、葬儀ビジネスを劇的に縮小させる」「遺言を通じて、志が継承されていく社会にする」といったことが、世のため人のためになると考えています。まさに、私の志です。
もちろん、上記に書いた葬儀社の「本業以外での貢献」は、我が遺言業界でも使えますよね。
]]>支持率は順調に(?)下がっているようですが、私から見れば、まだこんなに支持されているというのが驚きです。とはいえ、多くの人が、この政権は短命に終わりそうだと感じ始めていることでしょう。そんな中、もう手遅れかもしれませんが、この100日の総括を。
良い点
鳩山政権について、頑張っているなぁと感じるのは、政治の意志決定のプロセスや仕組みを変えたり、無意味だったり弊害のあった慣習を打破している部分です。もちろん、事業仕分けもその一つです。
永田町や霞ヶ関に「文化革命」をもたらしつつあることは事実のようで、これは後世にも功績として称えられるでしょう。望むらくは、取り組みを継続し、改善のサイクルを回してほしいものです。取り組みの中には間違っていたり不十分だったりするものもあるでしょうから、走りながら直していっていただきたい。仮に次の総選挙で政権の座を他党に明け渡すことになっても、(最長)4年続ければかなりのことができるはずです。
ダメな点
これは多すぎるので、箇条書きにします。
どうしたらいいか
もちろん上記を全て改めてほしいのですが、それは無理な注文というもの。せめてこれだけはやってよ、というのを挙げます。2つだけ。
1)環境問題に総力を挙げて取り組む
いわゆる25%の削減目標、私は悪くないと思っています。問題は、実現に向けた具体的な道筋が見えてこないこと、そしてそのために、多くの人が「経済成長を阻害するのではないか」と思っていることです。
経済成長と環境負荷低減を両立させ、関連する技術・ビジネス・社会制度において、世界のトップランナーになる。もとより、二酸化炭素排出を劇的に減らす(あるいは、森林等による吸収を劇的に増やす)。こうしたことがいくらかでも実現できれば、それだけでも一内閣の功績としては、十分ではないでしょうか。
もちろん、実現できるという保証や確証はありません。でも、政府が「本気」になることの効果は、決して小さくないはずです。そして、鳩山由紀夫政権が「環境問題最重視」の旗を掲げることは、特に違和感もないですし。
2)社会保障制度改革を成し遂げる
これも、国民が民主党に期待していることじゃないでしょうか。負担の切り上げと給付の切り下げがズルズル繰り返されるのは、もうウンザリです。少子化が最悪の予想よりさらに進んだとしても持続し得るような制度設計、財政措置を、打ち出してもらいたい。いわば、決定版というヤツを、です。
その際には、自民党を中心とする野党にも、議論にきちんと参加してもらって、政権交代しても揺るがない制度にしていただきたい。制度の「甘さ」が選挙のたびに競われるようでは、いずれ財政の破綻は必至ですから。
政権交代を実現させた国民は、変革を望んだ。確かに、その通りでしょう。ただ、何もかも変えてくれと考えているわけではないでしょうし、まして変革の結果、混乱がもたらされることは望んでいないはずです。上記2点以外は、放置しがたい弊害が露わになっているものを除き、性急に変革しなくてもいいんじゃないでしょうか。日米同盟関係などは、その最たるものですが。
]]>勝手ながら、来年私が興味を持つ分野でどんなことが起こるか、予想してみたいと思います。
遺言業界
まず、注目は非嫡出子の相続差別を定めた民法(第900条4項)の規定が改正されるかどうかが注目されます。民主党や社民党の思想からすると大いに進みそうな気もしますが、政局の不安定な状況が続くと、それどころじゃないかもしれません。
次に、今年コクヨが発売した「遺言書キット」。同商品は引き続き売れるでしょうし、真似をした「キット」状のものも次々出てくるでしょう。一般向けの遺言ガイド本では、必須のアイテム、みたいになるかもしれません。
個人的には、エンディングノートともども、こうしたモノがテレビなどにたびたび取り上げられて、「遺言ブーム」が到来することを期待したいものです。
あとこれは勘ですが、尊厳死など終末期医療に関わる意思表示が、かなり定着するのではないかと思います。「法制化」は、たぶんないでしょうけど。
葬儀業界
今年も進んだ「小規模化」は、来年も引き続き大きなトレンドであり続けるでしょう。景気不振ともあいまって、直葬の浸透が一気に進むことも、考えられなくはありません。大都市部では、「半分が直葬」という事態がひたひたと迫っていると思われます。
そんな中、事業を続けられなくなる葬儀屋さんも、出てくるでしょうね。恐らく今後しばらく続くであろう葬儀屋大量倒産時代の幕開けの年になりそうです。
ただ一方では、直葬の施行例が増えていく中で、直葬のデメリットのようなものも浮き彫りとなってくるのではないでしょうか。要は「あっさりしすぎ」ということですけど。結果、揺り戻しというか見直しの動きが、一部に出てくるかもしれません。こちらは、要注目です。
Web
さて次に、これは私のお仕事分野じゃありませんが、Webについても一言。来年は、今年も既に始まっているクラウド化、モバイル化、ソーシャル化といった流れが、さらに強まり、広く浸透する年になりそうです。その中から、全く新しいサービスやアプリケーション、活用法が出てくるかもしれません。
個人的には、来年もさらにGoogleにハマりそうです。Android携帯を買うことはほぼ決めていますし、Chrome OSを搭載したネットブックにも興味があります。そしてWaveも、広く使われるようになればその真価が見えてくるのではないでしょうか。
その他では、電子書籍の動向に関心があります。来年は日本における「電子書籍ビッグバン」の年になりそうな気配が、ありありですので。年末の頃には本代の半分が電子書籍代に! なんてところまで行ってたら、スゴいんですけどね。
政治・経済
さて、最後にこの点。まず、景気はかなり悪化する気がしています。民主党政権の政策がダメダメだし、国民の心理がひどく萎縮している。結果、政治も不安定な状態が続くんじゃないでしょうか。鳩山氏が参院選までに退陣するのは確定的として、次に総理となる人も、盤石な政権を築けるかどうか、疑問です。
みんなの党、志民会議(「よい国つくろう!」日本志民会議)には期待し、応援しています。両者にはこの政治の低迷をバネとして、活動を大きく広げていってもらいたいものです。
ともあれ、良いお年を!(このブログは、本年最後じゃありませんけどね~)
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「プロ遺族」といっても、それでメシを食っているわけではなく、それを生活における活動の中心にしている、ということです。具体的には、福知山線脱線事故や地下鉄サリン事件の一部遺族、「自死遺族の会」といった活動をしている人たちを念頭に置いています。
どんな信条を持とうが、どんな活動をしようが、基本的にはその人の自由です。ただこうした堂に入ったプロ市民は、自分のためにも良くないし、周りにも迷惑な存在だったりします。そしてきっと、故人も喜ばないでしょう。
プロ遺族本人に向かってたしなめる、ということはしませんし、できませんが、この場を使って、「やめた方がいいよ」と言いたいです。
本人のためにならない、とは、悲嘆をいわば「抱きしめる」ことは、その克服にとって妨げとなるということです。当初は内側からわき出る悲嘆が当然あるでしょうけど、「悲嘆を抱えた私」というアイデンティティを確立してしまうと、意識的にか無意識的にか、悲嘆から抜け出すのを避けるようになります。それは、良くない。
また周りに迷惑というのは、これらの人が過度に傷つきやすい反面に攻撃的で、自分の気持ちをわかってくれない人や、自分の要求をそのまま呑んでくれない人を、ひどく責めがちなのです。悪いことに、そうした傲慢は、周囲の誰も指摘してくれないので、時として醜悪なまでに増長することがあります。上に書いたように、「鼻つまみ者」になってしまうのです。
あなたの周りにはこんな「プロ遺族」、いませんか?
]]>サイエンスあれこれ : 臨床試験の信頼性を危うくする「者」とは
心疾患がある患者のうち、臨床試験への参加を積極的に希望した患者は、たとえ実際に試験は行われなくても、参加を希望しなかった患者より長生きしたというのです。つまり、長生きした原因は、治療を受けたせいではなく、治療を受けたいという積極性にあったというのです。
何故、積極的に臨床試験を受けたいと願い出るだけで長生きできるのかという理由に関しては、何事も前向きに信じる人は、ストレスも少なく、落ち込むこともないので、それが功を奏したのではと考えられますが、確かなことはわかりません。
個人的には、「ありそうな話だな」と思います。事態が悪化する可能性があっても、良くなるチャンスがあるならそれに賭けてみる。そうした積極性も持つ人の方が、トータルで見れば生き延びていく確率が高いのでしょう。
上記は、あくまで心疾患を持つ患者を対象にした調査ですが、このことは一般的にも当てはまるんじゃないでしょうか。生きるハリみたいなのを失った人が急速に老け込むことは、誰しもよく目にしているはずです。逆に生活に前向きに取り組んでいる人は、老化、ひいては各種疾患のリスクを遠ざけることができるように思います。
ただ一方では、タイプAと呼ばれる短気で攻撃的な人は、心疾患・血管疾患になりやすい、とも言われています。矛盾したような表現ですが、「静かなる積極性」みたいなのが、一番いいのかもしれません。
]]>2010年が始まりました。お互い、この一年が良い年でありますように。
年明けは年に一度あるわけですが、今回の場合、新たな「2010年代」の始まり、また我が国では昨年政権交代が実現したこともあって、「区切り」という感覚が例年以上に強いように思います。
今年もこのブログでは、私の個人的なこと、仕事のこと、そして世の中のことについて、広く話題にしたいと思います。
で、新年一回目は、今年の世界に望むこと。
ズバリ、「当事者意識を持ち、ささやかでも自分のできることをやろう」というのが、私の主張です。批判や評論ばかりしていても仕方がない。何かできることを見つけて、それに手を着ける。自分もそうありたいと思いますし、みんなもそうであってほしい。
小賢しい批判とか、陰口とか揶揄とか、もう、いいです。我々はもっと、責任感を少しでも持たなくてはいけません。幸いというか、ネットが世の中に浸透することで、社会参加の道筋は広がっているように思います。どんな社会が望ましいかを考え、それに少しでも近づくような具体的行動をとって行きましょうよ。
言ってみれば「小さなことからコツコツと」ですね。口先だけ達者な人を、私は心底軽蔑します。
]]>日進月歩は大げさですが、月単位で見れば、着実に進歩していますので。問題は、情報収集に時間を取られすぎることですが・・・。
情報収集・整理のツールとして、私は主に以下のものを使っています。
RSSリーダー
個人のブログや、RSSを配信しているニュースサイトの購読を始め、いろんなRSSを登録しています。私のRSSリーダー活用法については、別途エントリーを書きます。ちなみに私は、プライベートと業務用で、Google Readerとlivedoor Readerを使い分けています。
ソーシャルブックマーク
現在は、はてなブックマークを使っています。気になった記事をクリッピングするのと同時に、そのフィードをTwitterに流すことで、「おすすめ記事」の紹介をしている格好です。
Googleニュース
「遺言」「相続」「葬儀」など、関心のあるキーワードでニュースを検索しています。この方法、案外知らない人が多いんじゃないでしょうか。超おすすめです。
はてなブックマーク・人気エントリー
これは話題になっている記事を押さえておくためにチェックしています。
新聞・雑誌、テレビ
これらについては、日頃から定期的に見ているものとは別に、関心のあるテーマが取り上げられるときには、個別にチェックするようにしています。その情報も、Webからというケースがほとんどです。
メディアマーカー
新刊本のチェックに活用しています。週に一度、関心のある30ほどのキーワードで、新しく出た本がないかどうか、チェックしています。登録した本の情報フィードは「読みたい本」としてTwitterに流れるようにしています。
Twitter
利用者が増えるとともに、情報収集ツールとしての有用性が増している感があります。興味が重なる人をフォローするのはもちろん、関心のあるキーワードで、つぶやきをウォッチしています。
さて、みんなが私と同様のことをやれ、と言っても、おそらくそれは無理でしょう。時間的にも、WebやPCのスキル的にも。そこで、「自分の専門分野については最低、これくらいやってよ」ということを、リストにします。
こんなところでしょうか。みんなで手分けして情報収集をし、それを共有するようにすれば、Webに理想的な「知の共同体」ができるんじゃないかと思います。この点に関して、ROM専と言われる「読むだけ」のユーザーは、卑怯だと思います。気の利いたコメントを付けなくてもいいので、紹介だけでもしてみてはどうでしょう。「情報の目利き」と評価されるのは、結構気分のいいものだと思いますよ。
]]>“生き甲斐やレゾンデートルが自己責任の時代” - シロクマの屑籠(汎適所属)
私は、人間という生物は、何らかの生き甲斐なりレゾンデートルなりをもたなければ心理的に参ってしまいやすいと思っているし、生き甲斐やレゾンデートルを求める事自体はとても尊いと思っている。心理的な生命線と言ってもいいかもしれない。けれども、そんなに大切なものだというのに、今、生き甲斐やレゾンデートルを自己責任でちゃんと手に入れられる人って、思ったほどにはいないんじゃないだろうか。
ごもっともだと思います。
「自己責任」という言葉、一部の人からは忌み嫌われています。でも、自分の生は最終的に自分で引き受けるしかない。これはこの先も変わらない真理だと思います。
さてその上で、2つほど私見を。
まず、人が生きる上での生き甲斐なりレゾンデートルなんて、無限にパターンがあるはずもなく、せいぜい数種類に大別されるのではないでしょうか。その意味で「自己責任」と言っても、真っ白な紙に自由に絵を描く、といったイメージで捉えるなら、それは間違いです。
どんなパターンがありえるか。それを語り出すと長くなりそうですが、仕事、地域社会、分野といったもので貢献する、ということに大半が集約されるでしょう。あとは、特定の個人に献身するというのも。ただこれは、弊害を生んだり、失敗したりすることも多いように思います。
生きがいと言った時、家族を思い浮かべる人は多いかもしれません。ただ家族は通常、安らぎを得る場ではあっても、生きる目的にはなり得ないと考えます。
さてもう一つ。具体的な生きがいは、各個人が状況や個性に応じて選び取るしかないとしても、「生きがいを持ちやすい社会」というのを築くことはできるはずです。たとえば、現に生きがいを持って生きている人が多くいる、つまりロールモデルがあふれているといったこととか、生きがいを具現化する上でいろんなサポートが受けられるということとか。
ついでに言えば、他人が生きがいを持って生きることに、何らかの形で役に立とうとすることも、立派な生きがいになりますね。
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