緩和ケアもほどほどに

投稿者: | 2017-04-22

愛読している大津秀一医師のブログに、考えさせられる話題が。

全力尽くすのみ 緩和ケアの進歩がもたらしている難しさ|大津秀一 オフィシャルブログ 「医療の一隅と、人の生を照らす」

先日、緩和ケアを実践されている先生とお会いした際、「最近、重いがんの患者さんでも元気そうに見える時間が長くなり、ひいては最後の経過が急なように見え、しばしばご本人やご家族から、いくら予告していても、『なんでこんなに急なのか』と言われることが前よりも増えている気がする」という話をしたところ、先生も同様の経験が増えていると話されていました。

「緩和ケアのできることを限界までやってあの状態を維持していても、患者さんやご家族、看護スタッフからも『先生、もっと良くしてください』と言われるんだよ」と先生はお話しされていて、私も同感でした。

緩和ケアが進歩してかなりのことができるようになった今でも、死へと向かうプロセスそのものを止められるわけではありません。むしろ症状緩和がうまく行けば行くほど、死を受け止め切れていない本人や家族の「なんでこんな急に」という戸惑いや失望、場合によっては怒りといったものは大きくなるのかもしれません。

延命治療については「なんのための延命治療か」が問われるようになり、時には頑なすぎるほどに忌避されるケースもあると聞きます。緩和ケアについても、いずれは「なんのための緩和ケアか」ということが問われるようになるかもしれません。もっとも、日本の現状では十分な緩和ケアにアクセスできないことのほうが問題なので、これを心配するのは先走りすぎでしょうが。

ある10年以上前に出版された緩和ケアの本に、痛みの治療が進歩すると、より根源的な内容を患者さんから問われるようになり(例えば『こうして生きるとは何でしょうか?』など)、その大変さと向き合っているという序文がありました。

こんなことを医師に聞いても、医師の方も答えようがないのではないでしょうか。

できれば病気になるうちからそうした問いに自分で向き合い、それなりの回答を用意しておくのが良いです。ただそうでないとしたら、「元気でいる」とか「一日でも長く生きる」ということを目標にするのではなく、こうした問いにきちんと向き合うことを優先した方がいいと思います。家族など周囲の人間も、それをきちんと受け止めたいものです。できるなら、「自分の時には・・・」と思いをめぐらせるくらいであってほしいです。

こうしたこと抜きに緩和ケアが進歩し普及したとしても、本人や家族のためになるどころか、かえって死を忌避する風潮を強めるだけかもしれない。そう感じたことでした。砂上の楼閣というたとえがありますが、まさにそんな感じかと。

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