惑いを許容するのも仏教?

「死生観」でTwitterを検索していて、興味深いツイートを見かけました。

あるときお坊さんに「死ぬ間際にジタバタしたっていいじゃないですか。それを認めるのも仏教なんですよ」と言われて感じ入った、というものです。

他人がジタバタしているのを「お前はダメなヤツだ」だ切り捨てるのではなく、赦してあげる。一人の人間として尊重してあげる、というのはわかります。尊い姿勢と言っていいでしょう。

けれども、一生を修行に費やしたお坊さんがもし自分の死に向き合ってオロオロしていたりしたらやはり私の中には「あなたは一生、何を修行してきたというのか」という侮蔑の念が沸き起こってしまいます。

現にある弱い自分、ダメな自分を認めるのは必要なことかと思います。けれどそれを「そのままで良いんだよ」と認めてしまっては、いつまで経ってもそこから抜け出せないのではないでしょうか。

仏教に徹したら「抜け出そうということ自体が賢しらなことなのだ」と言われてしまうかもしれません。でもそれでは、あらゆる努力とか人為的営みが無駄ということになり、つまりはさっさと死んだ方がマシ、ということになりませんかね?


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