社会とどう関わるか

投稿者: | 2010-08-30

我が国においては、「公」という言葉のイメージや使われ方は残念な状況にあります。

いわゆるお上、つまり「官」とイコールに捉えられているケースが少なくなく、また同時に多くの人が「滅私奉公」を連想するようで、忌避すべきもの、避けて通りたいものと考えるようです。

けれども、公の担い手は「官」だけではないし、また「官」は、きっと最も重要な担い手ですらありません。主人公は、一人一人の「民」であり、家族や地域など多くのコミュニティであるはずです。

「公」を担うこと。それは市民社会に生きる大人にとっては、権利でもあり、同時に義務でもあると考えます。どのように関わるかは、当人の意思に委ねられているでしょうが、社会にいわばただ乗りする自由なんて、私は認めたくありません。もとより社会参画を個々人に強制することはできませんが、参画をサボタージュする者は、非難されたり、時には罰則(といっても、不利な扱いを受けるといった程度のことですが)を受けたとしても、文句は言えないと思います。

こんな風に言うと、社会に参画して「公」を担うということが、何か労役のように聞こえてしまうかもしれません。でも私のイメージは全然違っていて、真に意味のある自己実現も、深い意味での働く喜びも、社会参画という側面抜きではあり得ないと考えています。つまりは、個人が人生から充実感を得る際の豊かな源泉だろう、と。

まずは、理想の社会について考え、語り合うところから始めませんか。自分では何一つ行動するつもりもない癖に、他人を批判し冷笑する、悪い意味での「評論家」は、もう要りません。

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