「生者は死者のために煩わさるべからず」をめぐって

投稿者: | 2015-09-12

お気に入りのブログでこの言葉について考察されていて、膝を打ってしまいました。

『 生者は死者のために煩わさるべからず 』 : D’s(ディーズ)さんのぶろぐ

『煩わさるべからず』という言葉の指す程度は分かりません。
しかし
私の考えで申しますなら
人は誰でも、死ねば大なり小なり “ 煩わせてしまう ” のです。
そして
私たちはそれを殊更に(申し訳ない)と考える必要はないのだと思います。

弔いとは人間の営みであり、愛の行為なのだと思うからであります。

「生者は死者のために煩わさるべからず」というのは潔いようでいて、人の気持ちや世の中の成り立ちを無視した宣言だと考えます。あえて強い言葉を使えば、非人間的というか。

亡くなった人のために働いたり、折に触れて思い出すことは、無駄どころか人生の大切な一部分なのではないでしょうか。それらを排除したあとに残る「生」って、いったい何なのでしょう。これを私はかねがね「大切な人を送ることより大事なコトなんて、人生にそうそうない」と言い聞かせています。

先に死んだ者は、生き残った者を煩わせる。それを代々繰り返してきたのが、人間社会というものです。それに大切な人のことであれば、残った方は「煩わしい」とは思わないのではないでしょうか。

その意味で、私は自分のことについて「生者は死者のために煩わさるべからず」などと言うつもりはありません。また先に死にそうな人がこのセリフを言ったら、「水くさいこと言わないでください!」と強く打ち消すつもりです。

ただ、供養のありようは世につれて変わって当然です。葬祭業者や僧侶が既存の葬儀・供養を正当化するために「葬儀有用論」みたいなのをぶつとしたら、それにも賛成しかねますけどね。

上記ブログでは今回紹介したエントリーのあと、映画「おみおくりの作法」についての感想・考察が二回にわたって書かれています。こちらも胸を打つ真摯な文で、この辺のことに関心のある人にとっては必読です。

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